チャールズ・スポルジョン
バプテスト派の牧師
(C.H.スポルジョンから転送)
チャールズ・ハッドン・スポルジョン(Charles Haddon Spurgeon, 1834年6月19日 - 1892年1月31日)は、イギリスの著名なバプテスト派の牧師、伝道者、説教者。教団教派を越えて影響を与えた「講壇のプリンス」と呼ばれる。日本語ではC.H.スポルジョン、チャールズ・スパージョンとも表記される。
神学
編集生涯
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- 1834年 会衆派の牧師の息子としてエセックス州ケルヴェドンに生まれた。
- 1849年 バプテスト派の信者の経営する学校で補助教員職を務め始めた。
- 1850年12月15日 日曜日に突然の吹雪のためにやむなく小さなチャペルに飛び込み、そこでプリミティブ・メソジストの信徒説教者が語る説教を聞いて、回心を経験した。決め手となった聖書の言葉は「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザヤ書45章22節)であった。
- 1851年5月3日 会衆派の伝統を捨てて、成人洗礼(バプテスマ)を受けて信仰を告白した。ケンブリッジに移転して、セント・アンドルーズ・ストリートのバプテスト教会に転籍した。
- 1852年 補助教員職を辞めて、ウォータービーチのバプテスト教会で牧師に就任した。一年で10人が400人の教会に成長した。
- 1854年 ロンドンの中央にあるニュー・パーク・ストリート・バプテスト教会の牧師に就任した。
- 1856年 サリー・ガーデン音楽堂の礼拝で説教をして12000人が出席した。
- 1857年 ロンドン・クリスタル・パレスで説教をして23654人が出席した。
- 1861年 ロンドン南部のニューイントンにメトロポリタン・タバナクル教会を建設。
- 1874年 双子の息子に洗礼を授ける。息子の内一人、チャールズ・ジュニアはグリニッジで牧師になり、もう一人のトーマスは1884年に父の後を継ぐ。
- 1892年 保養先の南フランスのメントンで客死。
人物像
編集- スポルジョンは独学の神学者であったが、その学問形成は宗教改革者やピューリタンたちの著書によるものであった。
- スポルジョンは12000冊の蔵書を持っていた。3分1はミズーリ州リバティのウィリアム・ジュウェル・カレッジに展示されている。
- 国教会の教職者にも講演をしたり、バプテスト派以外の会合でもよく説教をした。幅広い交友関係があった。
- スポルジョンは社会改革にも積極的に取り組んだ。タバナクル教会は35の異なった慈善組織に着手していた。この組織を支えるために私財をつぎこんで、死去の際には自宅以外の財産はほとんどなかった。
- スポルジョンが始めた神学校パスターズ・カレッジは、今日でも英国で一番神学生が在籍している神学校である。
- スポルジョンの説教は毎週印刷され、60冊以上の説教集が刊行された。
影響を受けた人
編集著書
編集- 『スポルジョン説教集』松代幸太郎訳、いのちのことば社、1961年
- 『主の約束は朝ごとに』湖浜馨訳、いのちのことば社、1985年
- 『主につく者はだれか』松代幸太郎訳、いのちのことば社、1986年
- 『たましいを追い求めよ』石黒則年訳、いのちのことば社、1991年
- 『ただ恵みによって』羽鳥明訳、いのちのことば社、1992年
- 『ダビデの宝庫』西河直茂訳、いのちのことば社、1992年
- 『ダビデの宝庫Ⅱ』西河直茂訳、いのちのことば社、1993年
- 『ダビデの宝庫Ⅲ』西河直茂訳、いのちのことば社、1993年
- 『教会と伝道』伊藤淑美訳、いのちのことば社、1993年
- 『ルック、ルック、ルック C.H.スポルジョン説教集』野田良晴訳、燦葉出版社、1993年
- 『十字架の上でキリストは』今井敦子訳、いのちのことば社、1996年
- 『祈りーー12の鍵』奥迫敦子訳、いのちのことば社、1997年
- 『朝ごとに』松代幸太郎訳、いのちのことば社、2000年
- 『夕ごとに』松代幸太郎訳、いのちのことば社、2000年
- 『妥協はしない』野田良晴訳、いのちのことば社、2004年
- 『新版 説教学入門』加藤常昭訳、いのちのことば社、2010年
参考文献
編集- 『世界説教・説教学辞典』
外部リンク
編集- <葡萄の実>ほん訳ミニストリー - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分) スポルジョンの説教の翻訳を公開。
- The Spurgeon Center (英語)
- Charles Haddon Spurgeon(英語) - Find A Grave