齋藤章児
齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2019年4月4日)は、日本のアマチュア野球指導者・解説者。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都[1] |
生年月日 | 1940年3月25日 |
没年月日 | 2019年4月4日(79歳没) |
選手情報 | |
ポジション | 捕手[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
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来歴
編集中学生の頃から野球を始め[2]、立教高校から立教大学経済学部卒業。社会人野球のヤシカを経て、1967年4月から東京農業大学第二高等学校の教諭になると同時に硬式野球部の監督に就任し、以降27年間で春2回、夏4回、甲子園に出場する。群馬県での高校野球監督就任については、群馬県立桐生高等学校監督であった稲川東一郎への思いがあったと語っている。
2000年から4年間、立教大学野球部監督[3]。2007年に育成功労賞を受賞。
監督から退いた後も野球のシーズンになると地元群馬テレビの高校野球関連番組に出演したり、上毛新聞紙上に観戦コメントを掲載したりなど活動した[2]。講演や執筆活動なども精力的に行い、人間形成の重要性を説き、野球の発展に尽力し続けた[4]。
2010年1月に少年野球の指導中に倒れ頸髄を損傷、四肢麻痺となり、晩年は車椅子での生活を送っていた[5]。
2019年4月4日、群馬県高崎市の自宅で死去[6]。死因は脳出血とみられ、前日には選抜高校野球大会決勝やプロ野球をテレビで観戦しているほどで、急逝であった[5]。79歳没。
スキャンダル
編集立教大学野球部監督就任中の2002年、教え子である多田野数人ら3人の部員がゲイビデオに出演したとの噂がインターネットや週刊誌で話題となり、取材を受けた際の彼の証言が元で出演が決定的になったとされる[7][8]。この時の発言
間違いない。なんだこれは……たまげたなあ
は有名であり、「たまげる」は現在「アダルトビデオへの出演を関係者が認める」という意味のインターネットスラングになっている。
なお、斎藤は否定の証言は一切せずに多田野らのビデオ出演を素直に認め、「こんなのに出たらもう駄目ですね。プロには断りを入れます」などと部員達を突き放した対応をとっている[注 1]。
著書
編集- おれの野球では勝てないのか(2015年7月6日、上毛新聞の本、ISBN 978-4863521360)
- これがおれの高校野球だ! -試合に学ぶ勝ち方のヒント-(2021年7月4日、上毛新聞社、ISBN 978-4863522855)
- 没後に出版。上毛新聞紙上に掲載した観戦記を再録したもの。
脚注
編集注釈
編集- ^ 合宿時にも後輩男性部員に対して、セクハラ騒動を起こした教え子を斎藤はきつく咎めており、心象が元々良くなかった可能性はある。ただし当該記事の中で、齋藤は多田野に関し「とにかく素直」「まったく手の掛からない素晴らしい子」と評価している。
出典
編集- ^ 「東農大二の名物監督、斎藤章児さん死去」『産経ニュース』2019年4月4日。2023年12月7日閲覧。
- ^ a b c “これがおれの高校野球だ! / 齋藤 章児【著】”. 紀伊國屋書店ウェブストア. 2023年12月7日閲覧。
- ^ “東京六大学トピックス 1999年11月18日の項に記載有り(最下段)”. (2002年11月10日) 2008年7月25日閲覧。
- ^ “斎藤章児さん逝く 県内私学野球の先駆者 関係者が哀悼”. 上毛新聞. (2019年4月5日) 2020年2月19日閲覧。
- ^ a b “斎藤章児さん死去 79歳 農大二27年間率いた名将 甲子園に6度”. 上毛新聞. (2019年4月4日). オリジナルの2019年4月4日時点におけるアーカイブ。 2019年4月4日閲覧。
- ^ “斎藤章児・元立大監督死去 元日本ハム多田野ら指導”. 日刊スポーツ. (2019年4月4日) 2019年4月4日閲覧。
- ^ 『週刊現代』2002年11月9日号(第44巻第48号、通巻:第2205号)210-213頁「スクープ 前代未聞のスキャンダル「今秋ドラフト1位」あの大学エースが「ホモビデオ」に出演」(講談社) - 同年10月28日発売。
- ^ 『東京スポーツ』2002年10月28日付紙面