高辻修長
高辻 修長(たかつじ おさなが)は、江戸時代後期の公家。維新後は華族(子爵)、宮中顧問官、東宮侍従長。漢文学者。少納言・高辻以長の子。官位は正二位。勲一等。
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
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生誕 | 天保11年11月29日(1840年12月22日) |
死没 | 大正10年(1921年)6月20日 |
改名 | 興麿(幼名)→修長 |
戒名 | 高徳院殿孤山誠忠大居士 |
墓所 | 東京都文京区の吉祥寺 |
官位 | 正二位、子爵 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 高辻家 |
父母 | 父:高辻以長、母:中院知子(中院通知の娘) |
兄弟 | 学長、修長、西高辻信厳 |
妻 | 山内鎮子(山内豊栄の娘) |
子 | 宜麿、広長 |
出自
編集朝廷で儒道・文筆をもって奉仕し、代々文章博士を世襲する堂上家の高辻家に生まれる。本姓は菅原姓で半家に属し、紀伝道を代々伝える。江戸期の石高は200石で、屋敷は新烏丸通丸太町上ル(現在の京都市中京区)にあった。この京都時代の墓所は浄福寺と常照院にあった。
経歴
編集天保11年(1840年)、半家の高辻以長の子として誕生。母は中院通知の娘・知子。幼名は興麿。
安政2年(1855年)2月17日、従五位上に叙される。安政4年(1857年)1月25日に正五位下となり、安政5年(1858年)10月28日に少納言に任じられ、12月19日より侍従を兼ねる。安政6年(1859年)4月24日に従四位下となり、万延元年(1860年)12月4日より文章博士を兼ねる。文久2年(1862年)1月5日に従四位上となり、文久3年(1863年)1月22日より大内記を兼ねる。
元治2年(1865年)1月5日に正四位下となり、慶応2年(1866年)4月25日に大内記を辞する[1]。同年8月30日、廷臣二十二卿列参事件に参加し、差控を命じられた[2]。明治元年(1868年)9月14日に従三位となる[1]。
明治2年(1869年)から明治17年(1884年)まで明治天皇の侍従を務める。この間、アメリカで岩倉使節団に随行した[3]。その後、明宮(大正天皇)の御用掛、東宮亮、皇太后宮亮・帝室会計審査官を経て、明治31年(1898年)より東宮侍従長、明治35年(1902年)より宮中顧問官を務めた[2]。大正10年(1921年)6月20日、薨去。享年82。
人物
編集江戸時代後期、「万延」→「文久」と、その次の「文久」→「元治」に改元する際には「令徳」を二度提案し、「元治」→「慶応」に改元する際には「平成」を提案するなど、高辻が元号の候補を提案した記録があると伝えられる[4]。
栄典
編集系譜
編集脚注
編集- ^ a b 『国史大系 第11巻 公卿補任 後編』
- ^ a b 20世紀日本人名事典
- ^ デジタル版 日本人名大辞典 Plus
- ^ “「令」含む元号、過去に2度落選=同じ人物、幕末に続けて提出”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2019年4月2日) 2019年4月2日閲覧。
- ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
- ^ a b c 高辻修長『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考
編集公職 | ||
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先代 中山孝麿(→欠員) |
東宮侍従長 1897年 - 1902年 |
次代 木戸孝正 |
日本の爵位 | ||
先代 - |
子爵 高辻家初代 1884年 - 1921年 |
次代 高辻宜麿 |