高句麗語
高句麗語(こうくりご)の項目では、かつて東北アジアに存在した高句麗(紀元前1世紀頃 - 668年)の領域で使用されていた言語について解説する。高句麗の言語はしばしば「高句麗語」という名称で学者らによって言及されるが、実際に単一の高句麗語と呼ぶことが可能な言語が存在したのかどうかを含め、実態はほとんど明らかではない。
高句麗語 | |
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話される国 | 高句麗 |
話者数 | — |
言語系統 |
不明
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言語コード | |
ISO 639-3 |
zkg |
Linguist List |
zkg |
Glottolog |
kogu1234 [1] |
「高句麗語」とは
編集高句麗を含む古代の東北アジア、朝鮮半島の言語史料は非常に乏しく、当時の言語の実際を知ることができる史料はほとんど存在しない[2][3]。このため、当時の言語を巡る研究は中国の史書における当時の言語状況への言及や、地名・碑文などから抽出可能な単語などを通じて行われている。しかし、これらの情報から「高句麗語」という単一の存在を仮定することは必ずしも可能ではない[4][5][6]。金芳漢は古代の言語の研究について「これは何も地名研究にのみ限ったことではないが、百済、新羅、加耶、高句麗という国があるからと言って、これらの国に一致した別々の言語が存在したと言えるのであろうか。また三国史記地理史において、地名が新羅・百済・高句麗に分類されているからといって、これに一致する三つの言語が存在したのだろうか(中略)とりわけ、高句麗語の概念を規定するのは困難を極めるであろう。ともかく、私たちに与えられた貧弱な資料のみによってそのような問題を解決するというのはほとんど不可能に近い。私たちは、ただただ与えられた条件下で最も合理的に推定していくしかないのである[4]」と述べている。従ってここで説明する内容は全て、これら非常に曖昧な情報から様々に試みられた推定の結果であり、高句麗語という言語の存在、近隣の言語との関係、さらには語彙や文法等について確実な情報は今なおほとんどない[4][7]。
史料
編集古代の高句麗は朝鮮半島の渾江流域から鴨緑江流域に登場し、5世紀以降には現在の中国東北部(満州)南部、ロシア沿海州、朝鮮半島北部を覆った国家であった。この地域の古代の言語についての情報を残しているのはまず歴代中華王朝の史書である。『三国志』の「魏志」には当時の東北アジアの諸族の風俗・言語等への言及がある[2][3]。これは具体的な言語自体の情報を含まないが、当時の各国の言語が相似、あるいは異なっているという情報を残しており、「極めて断片的で皮相的なものであるが、私たちはここから出発せざるを得ない[3]」(金芳漢)重要な記録である。他に『後漢書』や『梁書』も同様の記録を残しているものの、これらのうち高句麗の風俗・言語に言及する部位は『三国志』「魏志」を下敷きとしていると見られる[8][注釈 1]。
もう一つの重要な手掛かりは古地名である。旧高句麗領の地名に関する情報が後の高麗(王氏)時代に編纂された史書『三国史記』に掲載されている。これは旧高句麗領のうち新羅領に組み込まれた地域の地名を景徳王16年(757年)に改名した時の記録に基づくもので、漢字音で土着語やその意訳で表記していた地名を表意的な漢字に代えて改名したものが含まれる[10]。これらは確実性の程度に差があるものの、実際の言語を垣間見ることが可能な情報が得られる[10][11][12]。
語彙
編集高句麗の言語の語意は大部分が地名研究によって得られたものである。旧高句麗領の地名では音読表記から訓読表記への変更と見られる例が存在する。ここから特定の語彙を抽出することが可能である。例えば「買忽一云水城(買忽は水城ともいう)」、「水谷城県一云買旦忽(水谷城県は買旦忽ともいう)」という記述から、買=水、旦=谷、忽=城、という関係性を得ることができる。そして、買・旦・忽は音読表記、水・谷・城は訓読表記と考えられることから、高句麗語では「水」を意味する単語は「買」、「谷」を意味する単語は「旦」と発音したことが理解できる[13]。これらの音読表記は当時の漢字音が確実にはわからないため正確な発音が不明であるが、他の史料によってさらに推定が行われている。例えば中古中国音(7世紀)では「買」は*mai、朝鮮漢字音(東音)ではmʌiである。さらに高句麗地名において「買」字が「米」「弥」字と通用することがあり、「米」が中古中国音で*miei、「弥」がmyie、そして東音では両方ともmiであることから、李基文は高句麗地名の「買」字音を*maiまたは*mieと推定し、よって「高句麗語」の「水」を表す語彙は*maiまたは*mieであると見た[13]。このようにして推定できる高句麗語の単語はおよそ80例、うちかなりの確実性を持つものは50例ほどがあるという[6]。
しかし、地名を用いた語彙の復元には複数の重要な問題がある。1つは旧百済・新羅領の地名変更記事では改名前の地名が既に訓読表記となっていて土着語の音が示されていない例が見られ、旧高句麗領の地名とそれ以外の地名で土着語の比較ができないというような質的な問題である[14]。もう1つは、高句麗地名に比べて百済・新羅地名の変更例は遥かに数が少ないという量的な問題である。このため、特定の語彙が旧高句麗領の地名からのみ抽出できるという状況が(例えば「忽」から「城」への書き換えは旧高句麗領のみで見られる)、実際に旧高句麗領と新羅・百済領の間にあった言語的差異を表しているかどうかが判別できない[14][15]。さらに旧高句麗領の地名変更の記録は、新羅に併合された高句麗領土南部の地域に限られ、他の大部分の地名に関する情報が手に入らないため、地域的にも大きな片寄りがある。そしてこの地域が高句麗の支配下にあった時期は期間的にかなり限られている[16][17]。その他の問題も含め、高句麗地名として扱われる地名が実際に「高句麗語の」地名であるかどうかは不明瞭である[4][18]。
系統論
編集現存する高句麗の言語の情報には周辺の様々な言語と関係性を見出すことのできる要素があることがわかっている[19]。これらに基づいて高句麗の言語と他の言語の関係性を推定する試みが様々の研究者によって行われている。
中国の史書による分類
編集古代東北アジアの言語の系統を論じる際には、しばしば「高句麗語」は扶余、沃沮、濊の言語とひとくくりで扱われる[20][21][22]。これは古代中国の史書、特に『三国志』「魏志」にこれらの諸集団の言語が類似しているという記録が存在していることによる。朝鮮語学者の李基文は、この『三国志』「魏志」の記述に依拠し、これらの言語を一つのグループにまとめた(李基文 1975では夫余系諸語と呼ばれている)[23][注釈 2]。ただし、これらの言語が実際に同一のグループとして区分できるかどうかは特定できておらず、その取扱いは学者によって異なる[注釈 3]。
高句麗の言語と周辺の言語の関係性
編集高句麗語との比較が行われている主要な言語には日本語・朝鮮語・ツングース語などがあり、李基文はそれぞれについて複数の語彙の共通性について論じている[19]。このような共通した語彙等に注目して、複数の学者が高句麗の言語系統について仮説を立てている。
古くから広まった仮説に、高句麗語を扶余語などともにツングース語と結びつける見解があり、この見解の先駆者には言語学者河野六郎がいる。高句麗の領域は後にツングース語の一派である満州語が使用された地域であるが、彼はいくつかの語意の類似から高句麗語および他の扶余(夫余)族の言語が満州語と同祖の言語であるとした[27]。これは第二次世界大戦前の日本の大陸政策の観点から高句麗をツングース系の国家とする学説が官民を挙げた後押しを受けたこともあり[27]、日本の学界では一時広く受け入れられ日本語圏では多くの書籍・辞典において高句麗がツングース系という説明が行われていた。高句麗語をツングース語と見る見解においては高句麗五部の名称(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)が重要である。村山七郎はこれらに含まれる奴(那, *nā)を南ツングース語のnā(土地、地方)が同一のものであるとし、さらに順、消、灌、絶をツングース語の方位語と見た[28][注釈 4]。李基文もまた、高句麗語*nanən(7)とツングース諸語のnadan(7)など若干の語彙をツングース語と比較可能なものとしている[19]。
一方で、李基文は扶余系統仮説の前提として『三国志』「魏志」に(粛慎の後裔である)挹婁の言語が扶余と異なると記されていること、さらに『北史』に挹婁の後裔と想定される勿吉の言語が高句麗と異なると記されていることなどから、これら粛慎系と言える人々の言語がツングース語と仮定するならば、扶余系言語がツングース語と別の言語集団としてはっきり区別されていたと考えることも可能として、別の見解を提示した[29][注釈 5]。
高句麗地名から導き出された語彙中には中期朝鮮語との間にも多数の類似する単語が存在することが指摘されており、高句麗語で「横」を意味する*esと、中期朝鮮語の*as、「黒い」を意味する高句麗語の*kəmərと中期朝鮮語のkəm、「牛」を意味する高句麗語*šüと中期朝鮮語syoなどが比較される[19]。アレキサンダー・ボビンは自身の研究成果に基づいて高句麗語が古代朝鮮語の一種であるとしている[30]。
こうした系統論とは別に、韓国と西洋の学者の多くは古くから高句麗語を始めとした「扶余系」の言語を古代朝鮮語の方言として扱っている[31][注釈 6]。
また、高句麗地名から復元可能な語彙の中に日本語と類似したものが多数みられることから、高句麗語は日本語の系統論においても古くから注目されている[32][33]。日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、*tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている[34][32]。クリストファー・ベックウィズは高句麗語を日本語の姉妹語と仮定し、両者の共通祖語としてCommon Japanese-Koguryoicを想定した[35][36][注釈 7]。しかし、この仮説は地名の偽高句麗語説やベックウィズの朝鮮語の知識不足のせいで、今は西洋の学系でもあまり評価されない。
李基文はあるいは高句麗語は日本語と朝鮮語の中間的な言語であったと想定できるかもしれないとも述べている[39]。
南豊鉉やアレキサンダー・ボビンは、三国の言語を古代朝鮮語の地域方言として分類している[40]。
出典
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注釈
編集- ^ 『三国志』「魏志」自体の情報も伝聞・推測によって記されたものとも言われる。「魏志」は高句麗と夫余の習俗・言語などの近縁性を語る文を「東夷舊語」で始めているが、李成市は『翰苑』が引く『魏略』秩文などの用例から、これは極めて疑わしい内容を伴う場合に用いられる表現であることを指摘している。田村専之助は「旧語」の多くは中国人自身の思想であることを留意しなければならないとしている。李成市はこれらから「少なくとも「魏志」高句麗伝による限り、高句麗が夫余の「別種」であるということは伝聞・推量の域を出ないということになる。」と述べる[9]。
- ^ 「東夷舊語、以為夫餘別種、言語諸事、多與夫餘同」(『三国志』「魏志東夷伝」)
- ^ 板橋義三は前朝鮮語から扶余祖語・朝鮮祖語が分岐したことを想定し[24]、李基文はやはり夫余・韓祖語から原始夫余語・原始韓語が分岐したという想定で系統図を示している[25]。金芳漢は濊・沃沮の言語が当時の高句麗の言語と同じであったかどうかについて、三上次男の見解も紹介しつつ、特に濊の言語について高句麗と同じであったと考えるのには問題があるとする[26]。伊藤英人は扶余系諸語の系統の研究状況について「半島中北部、東部には夫餘系諸語が話されていたが、夫餘系諸語が同一語族に属するかも判然とせず、それら諸言語の系統も不明である」とまとめている[5]。
- ^ この推測は後に高句麗五部が方位を用いた東西南北内、もしくは前後上下に改名された事実とも符合する。ただし灌奴部は南部に、絶奴部は北部に改称されているが、この推測では灌は北、絶は南の意味となり矛盾する。村山・金はこれを何等かの理由により南北が誤記されて逆転して記録されたものとして処理している[28]。
- ^ ただし、李基文は2011年の書籍においてもなお、粛慎系の言語がツングース系であるかどうかについて確かではないとしている[20]。
- ^ 実際に言語学者Kim Nam-Kilは概説において、朝鮮語の起源論の概説において扶余語(Puyo language)をツングース語の一派である古代朝鮮語の方言(dialects)として説明を行っている[21]。
- ^ ただしBeckwithの説に対しては言語学者トマ・ペラールが論証に問題がある(Unfortunately, Beckwith’s ambitious work is heavily flawed in many aspects, of which I will provide only a few examples.)としてその多くを批判している[37]。また板橋義三も、Beckwithの高句麗語と日本語の比較について、重複や読みの不明確性を指摘している[38]
参考文献
編集- 板橋義三『高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』国際日本文化研究センター、2003年12月、131-185頁。ISBN 490155817X。
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- 伊藤英人「朝鮮半島における言語接触 ―中国圧への対処としての対抗中国化―」『語学研究所論集』第18巻、東京外国語大学、2013年3月、ISSN 13419846。
- 伊藤英人 著「第4章 古代朝鮮半島諸言語に関する河野六郎節の整理と濊倭同系の可能性」、長田俊樹 編『日本語「起源」論の歴史と展望 日本語の起源はどのように論じられてきたか』三省堂、2020年3月。ISBN 978-4-385-36508-4。
- 井上直樹『帝国日本と〈満鮮史〉』塙書房〈塙選書〉、2013年1月。ISBN 978-4-8273-3116-5。
- 馬淵和夫、李寅泳、大橋康子「『三国史記』記載の「高句麗」地名より見た古代高句麗語の考察」『文藝言語研究. 言語篇』第4巻、筑波大学、1980年3月、ISSN 03877515、2018年3月閲覧。
- 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月。ISBN 978-4-00-002903-2。
- Alexander Vovin (2013). “From Koguryo to Tamna”. 14 (2): 222-240. doi:10.1075/kl.15.2.03vov.
- 金東昭 著、栗田英二 訳『韓国語変遷史』明石書店、2003年5月。ISBN 978-4-7503-1714-4。
- 金芳漢 著、村山七郎監修、大林直樹 訳『韓国語の系統』三一書房、1985年11月。ISBN 978-4-380-85231-2。
- Kim Nam-Kil (2009). “Korean”. The World's Major Languages. London: Routledge. ISBN 978-0-415-35339-7
- 李基文 著、村山七郎監修、藤本幸夫 訳『韓国語の歴史』平凡社、1975年6月。ASIN B000J94PIA。
- Lee, Ki-Moon(李基文); S. Robert Ramsey (2011). A History of the Korean Language. Cambridge University Press. ISBN 978-1-139-49448-9
- Christopher I. Beckwith (2004). Koguryo, the Language of Japan's Continental Relatives. Brill. ISBN 978-90-04-13949-7
- Thomas Pellard「Review: Christopher I. Beckwith (2004) Koguryo, the Language of Japan’s Continental Relatives: An Introduction to the Historical-Comparative Study of the Japanese-Koguryoic Languages with a Preliminary Description of Archaic Northeastern Middle Chinese」『Korean Studies』第29巻、2005年3月、167-170頁、doi:10.1353/ks.2006.000、2021年4月閲覧。