高 勱(こう ばい、生没年不詳)は、中国北斉皇族は敬徳[1][2][3]本貫渤海郡蓨県の四州刺史を歴任した[4]

経歴

編集

北斉の清河王高岳の子として生まれた。幼いころから聡明で、姿かたちが美しく、文宣帝に愛された。7歳のとき、清河王の爵位を嗣いだ。14歳で青州刺史となり、右衛将軍・領軍大将軍・祠部尚書・開府儀同三司を歴任し、楽安王に改封された。斛律光に召されて、征戦に従い、かれを補佐した[1][2][5]武平5年(574年)8月、尚書右僕射となった[6][7][8]。武平7年(576年)12月、後主晋州北周の軍に敗れると、高勱は胡太后を奉じてに帰った。勝手なふるまいをしていた宦官の苟子溢を斬ろうとしたが、胡太后に阻止されてできなかった。後主に鄴に留まって戦うよう勧めたが、後主は聞き入れず[9][2][10]、東方に逃走した。高勱は殿軍をつとめ、北周軍に捕らえられた。北周の武帝が高勱に会って語り合うと、大いに喜び、北斉が滅びた理由を訊ねた。高勱は涙を流して語ったので、武帝は態度を改めた。開府儀同三司の位を受けた[2][10]

大象2年(580年)、楊堅が北周の丞相となると、高勱は器量を買われて検校揚州事をつとめた。後に楚州刺史に任ぜられた。楚州城の北に伍子胥の廟がまつられていたが、高勱は伍子胥信仰を民衆の産業を破壊するものとして、禁止した[11][10]

開皇7年(587年)、光州刺史に転じ、南朝陳を取るための五策を上書した。隋軍が大挙して陳を討つと、高勱は行軍総管となり、王世積の下で陳の江州を落とした。功により上開府の位を受けた[12][13]

隴右の羌族たちが隋に反抗すると、高勱は洮州刺史に任じられて対応にあたった。後に吐谷渾の侵攻を受けると、高勱は病のため出戦できなかった。多くの戸口が失われたことを弾劾され、また羌族から賄賂を受けたと告発されて、免官された。後に家で死去した[12]。享年は56[14]になって都督四州諸軍事・定州刺史の位を追贈された[1][12]

子の高士廉は、初唐の名臣として知られた。

脚注

編集
  1. ^ a b c 北斉書 1972, p. 177.
  2. ^ a b c d 北史 1974, p. 1849.
  3. ^ 隋書 1973, p. 1372.
  4. ^ 北斉書 1972, p. 178.
  5. ^ 隋書 1973, pp. 1372–1373.
  6. ^ 氣賀澤 2021, p. 135.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 108.
  8. ^ 北史 1974, p. 296.
  9. ^ 北斉書 1972, pp. 177–178.
  10. ^ a b c 隋書 1973, p. 1373.
  11. ^ 北史 1974, pp. 1849–1850.
  12. ^ a b c 北史 1974, p. 1850.
  13. ^ 隋書 1973, pp. 1373–1374.
  14. ^ 隋書 1973, p. 1374.

伝記資料

編集

参考文献

編集
  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『隋書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00316-8