青柳秀夫
青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年7月12日 - 1986年5月31日)は、日本の内務官僚、政治家。愛知県知事(官選第39代、公選初代)、参議院議員(3期)。
青柳 秀夫 あおやぎ ひでお | |
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生年月日 | 1897年7月12日 |
出生地 | 群馬県前橋市 |
没年月日 | 1986年5月31日(88歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科 |
所属政党 |
(無所属→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 |
選挙区 | 愛知県選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1971年7月3日 |
公選初代 愛知県知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年4月5日 - 1951年4月4日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年3月5日 - 1947年3月25日 |
来歴
編集群馬県前橋市に富樫竹次の五男として生まれる。青柳新米の養子となり、1922年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、横浜正金銀行に入行し、後安田銀行に移った。1926年、高等文官試験に合格[1]。1927年、内務省に入省。北海道、大阪府、福岡県(部長・経済部長[2])、長野県などで勤務した。
1947年3月5日、愛知県知事の桑原幹根が初の公選愛知県知事選挙に立候補するために辞職[3]。そのあとを受けて同日、当時愛知県内務部長だった青柳が官選最後の知事に就任。ところが告示後の3月25日、桑原は公職追放される。身代わりとして立候補することとなり、同日に知事を退任し[4]、4月5日に行われた知事選で初当選。1期4年務める。 同年10月23日、昭和天皇が北陸方面に行幸する途上、お召し列車の車内で県勢などを奏上する機会を得る[5]。
退任後は名古屋競馬株式会社初代社長に就任[6][7]。1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から出馬(自由党候補)し当選。その後、第5回、第7回通常選挙でも当選し、参議院議員を3期18年務めた。1967年秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章[8][9]。1971年6月の第9回参議院議員通常選挙には出馬せず引退。この間、参議院外務委員長、同大蔵委員長、同公職選挙法改正に関する特別委員長、愛知県福利協会会長などを務めた。1971年、功労議員表彰を受けた。
1986年5月31日、脳出血のため死去。88歳没。死没日をもって正五位から正四位に叙され、銀杯一組(第3号)を賜った[10]。
脚注
編集- ^ 『日本の歴代知事 第二巻 (上)』 歴代知事編纂会、1981年3月30日、492頁。
- ^ 『官報』第4940号、昭和18年7月2日。
- ^ 『中日新聞』1991年1月3日付朝刊、市民版、18面、「あいち知事選物語 (2) 公選 食糧難、実施実らず 初回は昭和22年 告示後に桑原氏追放」。
- ^ 桑原幹根 『桑原幹根回顧録 知事二十五年』 毎日新聞社、1979年2月1日、80頁。
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、508頁。ISBN 978-4-487-74410-7。
- ^ 日本中央競馬会総務部調査課 編纂『日本競馬史 第7巻』日本中央競馬会、1975年、859頁。
- ^ 中央競馬ピーアール・センター/企画編集『中京競馬40年のあゆみ』日本中央競馬会中京競馬場、1993年、12頁。
- ^ 「青柳 秀夫」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』 。コトバンクより2022年12月11日閲覧。
- ^ 『官報』第12267号10頁 昭和42年11月4日号
- ^ 『官報』第17799号12-13頁 昭和61年6月14日号
参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056。
公職 | ||
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先代 新設 |
愛知県知事 公選初代:1947年 - 1951年 |
次代 桑原幹根 |
議会 | ||
先代 竹中恒夫 |
参議院大蔵委員長 1968年 - 1969年 |
次代 丸茂重貞 |
先代 寺本広作 黒川武雄 |
参議院外務委員長 1958年 - 1959年 1964年 - 1965年 |
次代 杉原荒太 小柳牧衛 |
官職 | ||
先代 桑原幹根 |
愛知県知事 官選第39代:1947年 |
次代 廃止 |