青木儀作
日本の煙火師・花火師
青木 儀作(あおき ぎさく、明治22年(1889年) - 昭和40年(1965年)1月2日[1])は、日本の煙火師・花火師。花火業界では初めて黄綬褒章を受章し、「花火の神様」とも呼ばれた[2]。
息子の青木多門、孫の青木昭夫も煙火師として活躍し、3代にわたって日本煙火芸術協会の会長を務めている[3]。
生涯
編集長野県上水内郡安茂里村差出(現・長野市安茂里差出)に三男一女の末子として生まれ、早くから村社・久保寺煙火行事に参加して花火と関わる[4]。安茂里小学校高等科を出て農業に従事[5]。地元には藤原善九朗経営の煙火工場もあり、花火に関心を寄せて研究を重ね、兵役後の大正5年(1916年)には花火工場をつくり、煙火製造に専念する花火師となった[4][5]。
大正10年(1921年)には、信濃煙火同志会が組織され、東京で東宮殿下(昭和天皇)欧州御巡遊の帰国にあたり奉祝煙火が行われた。これに青木儀作も参加し、花火の技術を全国に知らしめることとなった[6]。
芯入り花火を研究し、抜芯技法を創始完成して、昭和3年(1928年)に多重芯割物(八重芯菊花火)の製造を完成。各地で開かれる花火競進会では優勝の成績を重ね、「紅屋青木」の盛名は全国にとどろくに至った[4]。美しい色を出す火薬の粒を「星」と呼ぶが、色の違った薬を二重、三重にかけ重ねる「掛け星」は日本独特の変色星で、青木儀作が工夫完成させたものである[4]。
日本の花火を最高芸術にまで昇華させた功労者として、昭和34年(1959年)には黄綬褒章を受章。これに伴い、翌年には日本煙火芸術協会が誕生し、儀作は初代会長に就任した[3]。
脚注
編集関連項目
編集- 長野えびす講煙火大会 - 長野市で行われる花火大会。青木儀作は大正5年にはすでに参加していた。
外部リンク
編集- 株式会社 紅屋青木煙火店 - 花火ぴあ
- 一般社団法人 日本煙火芸術協会