長尾立子
長尾 立子(ながお りつこ、1933年5月1日 - )は、日本の政治家、厚生官僚。法務大臣(第62代)、参議院議員(1期)、日本社会事業大学理事長を歴任。
長尾 立子 ながお りつこ | |
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生年月日 | 1933年5月1日(91歳) |
出身校 | 東京大学文学部社会学科 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 旭日大綬章 |
第62代 法務大臣 | |
内閣 | 第1次橋本内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1996年11月7日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1997年5月19日 - 1998年7月25日 |
来歴・人物
編集旧制府立第五高等女学校(現在の東京都立富士高等学校・附属中学校)に入学したが、家庭の事情で転校し、1953年に東京都立江北高等学校を卒業(なお、第五高女に在籍したため、その後身である富士高校の同窓会にも在籍。新設都立富士高校第4回卒業生同窓会「よんの会」のメンバーでもある)。
一浪後、東京大学に入学し、文学部社会学科を卒業[1]。1958年、厚生省に入省し、年金局年金課長[2]、厚生省年金局企画課長[3]、社会保険庁年金保険部長[4]、厚生省児童家庭局長[5]、厚生省社会局長[6] などを歴任した。厚生省年金局年金課長時代、1978年から1979年にかけて社労族の橋本龍太郎が初入閣で厚生大臣となり、橋本との信頼関係が強固となる。
橋本の強いプッシュで1992年の第16回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で、比例区から立候補するが落選。
1996年1月5日、村山富市首相が退陣を表明[7]。これに伴い、自民党総裁の橋本龍太郎が首相の座に就くことになったが、橋本は就任前日の1月10日夜、加藤紘一幹事長と野中広務幹事長代理を呼び、組閣作業を一任した。野中は女性の入閣を望むも、当てにした人物はことごとく断られた。そのとき浮かんだのが長尾であった。「(注・1992年の参院選に)こっちから出てくれと言って出しておいて、当選できなかった。申し訳ないから、罪滅ぼしするとしたらあの人だ」と橋本に薦めた。打診を受けた長尾は「今さらもういいですから」と一度は断るが、熟慮ののち引け受けた[8]。1月11日発足の第1次橋本内閣に女性初の法務大臣として入閣した。同年に内閣が提出した民事訴訟法法案の成立を推進した[9]。民間人閣僚の法務大臣就任は、細川内閣の三ヶ月章法相以来。同年11月まで務めた。法相在任中は、3人の死刑囚の死刑執行を命令した。また同年には、全国社会福祉協議会・中央共同募金会・全国老人クラブ連合会の会長に就任した。
1997年5月19日、嶋崎均の死去により参議院議員に繰り上げ当選したが[10]、翌年の参院選には立候補せず、政界を引退した。引退後は自由民主党党紀委員会委員に就任し、引き続き党務に関わった。
政策
編集- 選択的夫婦別姓制度導入に賛成。
役職
編集- 全国社会福祉協議会名誉会長
著書
編集- 『三つの絵 しなやかな福祉社会づくり』ぎょうせい、1991年。
出典・脚注
編集- ^ 『婦人公論 第65巻』、1980年発行、38ページ
- ^ https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108414889X00819780420
- ^ https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=109414410X01119810512
- ^ https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110214410X00419841220
- ^ https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111214410X00219880301
- ^ https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111814410X00919900619
- ^ 後藤謙次『ドキュメント 平成政治史 1 崩壊する55年体制』岩波書店、2014年4月17日、344-345頁。ISBN 978-4000281676。
- ^ 御厨貴・牧原出編『聞き書 野中広務回顧録』岩波書店、2012年6月28日、201-202頁。ISBN 978-4000018210。
- ^ 第136回国会本会議第17号議事録、1996年4月12日 - 国立国会図書館 、日本法令索引
- ^ “長尾立子 参議院議員の実績”. 国会議員白書. 2020年8月30日閲覧。
- ^ 長尾立子 (2010年6月25日). “退任のあいさつ” (PDF). 日本社会事業大学報 たけおか (日本社会事業大学) (59): p. 2 2011年6月6日閲覧。
関連項目
編集公職 | ||
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先代 宮澤弘 |
法務大臣 第62代:1996年 |
次代 松浦功 |