長尾房長
戦国時代の越後国の武将、上田長尾家の当主
長尾 房長(ながお ふさなが)は、戦国時代の武将。上田長尾家6代当主。上杉景勝の祖父に当たる。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 明応3年(1494年)頃? |
死没 | 天文21年8月15日(1552年9月3日) |
改名 | 房長 → 月洲 |
別名 | 通称:新六 |
官位 | 越前守 |
主君 | 上杉房定→顕定→定実→長尾為景→晴景→景虎 |
氏族 | 桓武平氏鎌倉氏流長尾氏・上田長尾家 |
父母 |
実父:長尾兵庫助憲長 養父:長尾景隆(顕吉) 生母:上条上杉氏の娘(好心贇公大禅尼)[1] |
兄弟 | (母方の兄弟姉妹)房長、景明、玖圓、天甫清公 |
妻 | 不明 |
子 | 市河信房室、政景、大井田景国、通天存達 |
略歴
編集上田長尾氏の当主・長尾憲長の子として生まれる。母は上杉氏。大永6年(1526年)3月、養父・長尾顕吉(叔父で母の再婚相手)の死後に上田長尾家を継いだと云われる。上田長尾新左衛門尉の子孫だとされているが、諸系図に拠っては、名を房景とし、能景の子で為景の兄弟と見做しているのも見受けられる(『系図纂要』)。他にも、父を景隆とし、子である政景とは兄弟とする系図もある(『古代氏族系譜集成』)。
越後長尾氏の一族である上田長尾家の当主であったが、長尾為景とは仲が悪く、関東管領・上杉顕定が越後国に侵攻してきたときには、顕定軍に属して為景を破っている。しかし為景が勢力を盛り返すと、為景に降伏してその家臣となった。以後、為景から景虎までの3代にわたって仕えている。
天文6年(1537年)、為景の娘を子・政景の室に迎え、越後長尾家との関係を強化した。天文21年(1552年)に死去し、後を嫡男の政景が継いだ。
出典
編集- ^ 今福匡 著「越後長尾氏と上杉謙信の閨閥 -「越後長尾殿之次第」の検討を通して -」、渡邊大門 編『戦国・織豊期の諸問題』歴史と文化の研究所、2017年、30-59頁。