酒井忠香

日本の江戸時代中期~後期の大名。越前敦賀藩2代藩主酒井忠菊八男で、敦賀藩4代藩主。従五位下飛騨守。西の丸若年寄・奏者番(寺社奉行兼帯)・大番頭を歴任

酒井 忠香(さかい ただか)は、越前敦賀藩の第4代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家4代。

 
酒井 忠香
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 正徳5年(1715年[1]
死没 寛政3年11月8日1791年12月3日
改名 忠香
戒名 水翁仁海寛国院
官位 従五位下播磨守、飛騨
幕府 江戸幕府大番頭奏者番寺社奉行兼帯、西の丸若年寄
主君 徳川吉宗家重→家治→家基家治家斉
越前敦賀藩
氏族 酒井氏
父母 父:酒井忠菊、養父:酒井忠武
兄弟 親本忠武忠恭忠敬忠香
水野忠定の娘
忠恕(長男)、忠節(次男)、水谷勝政(三男)、忠言(四男)、山名豊磐(五男)、忠貞(六男)、忠進(七男)、娘(内藤正弼正室)、娘(水野忠敞正室)、娘(浅野長富正室)、娘(酒井忠記正室、のち小出英敦室)、娘(滝川利雍正室)、娘(酒井忠貞室)
テンプレートを表示

生涯

編集

第2代藩主・酒井忠菊の八男として生まれる。

享保16年(1731年)、兄である第3代藩主・忠武の養嗣子となって家督を継いだ。延享2年(1745年)に大番頭宝暦8年(1758年)に奏者番宝暦11年(1761年)に寺社奉行兼帯、明和2年に(1765年)西の丸若年寄などを歴任して徳川家基付の重臣となった。家基亡き後は将軍・徳川家治に仕えた。

天明8年(1788年)に家督を子の忠言に譲って隠居し、寛政3年(1791年)11月8日に77歳で死去した。

系譜

編集

父母

正室

子女

脚注

編集
  1. ^ 享保4年(1719年9月5日生まれとも。