赤ひげ

1965年の日本の映画

赤ひげ』(あかひげ)は、1965年昭和40年)4月3日に公開された日本映画である。東宝配給。監督は黒澤明。主な出演は三船敏郎加山雄三[注釈 1][注釈 2]モノクロ東宝スコープ、185分。

赤ひげ
監督 黒澤明
脚本
原作 山本周五郎
製作
出演者
音楽 佐藤勝
撮影
製作会社
  • 東宝
  • 黒澤プロダクション
配給 日本の旗 東宝
公開 日本の旗 1965年4月3日ロードショー公開4月24日一般公開
上映時間 185分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 3億6159万円[1]
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原作は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』(新潮社ほか)で、江戸時代後期の享保の改革徳川幕府が設立した小石川養生所を舞台に、そこに集まった貧しく病む者とそこで懸命に治療する医者との交流を描く。決して社会に対する怒りを忘れない老医師の赤ひげと、長崎帰りの蘭学医である若い医師・保本登との師弟の物語を通して、成長していく若い医師と貧しい暮らしの中で生きる人々の温かい人間愛を謳いあげた映画である。

第39回キネマ旬報ベスト・テンで第1位に選ばれたほか、第26回ヴェネツィア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、サン・ジョルジョ賞などを受賞した。

ストーリー

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主人公の青年、保本登(加山雄三)が小石川養生所へ続く坂を上り、養生所の門をくぐっていく後姿の場面から映画が始まる。

登は3年間の長崎への留学を終えて、幕府の御番医になる希望に燃えて江戸へ戻って来た。オランダ医学を修め、戻れば父の友人である天野源伯が推薦し、幕府の医療機関への出仕と源伯の娘で許嫁のちぐさ(藤山陽子)と結婚するはずであった。しかし、ちぐさは登の遊学中に他の男と恋仲になり、子供まで生んでいた。そして幕府の医療機関として配置されたのは小石川の施療所で、自分の知らない間に養生所の医師として働くように段取りがつけられていた。納得できない登だが、幕府からの辞令であるため何も出来ず、小石川養生所の所長で通称「赤ひげ」と呼ばれている新出去定(にいできょじょう、三船敏郎)に会うために養生所を訪れた。江戸に帰れば御目見医の席が与えられるはずであると思っていたが、しかしその門の前に来た時に、まさかこんな処へ自分が押し込められるはずがないと彼は思った。初めて会った時に、赤ひげは鋭い眼つきでじっと見つめ、決めつけるように登に言った。「お前は今日から見習いとしてここに詰める」。この日から医員見習いとして養生所に住み込んだ。登は全く不服で、酒を飲み、御仕着も着ず、出世を閉ざされた怒りをぶちまけて赤ひげの手を焼かせるのであった。

登は養生所内の薬草園の中の座敷牢に隔離されている美しく若い女(香川京子)を見た。店子を三人も刺し殺したというがぞっとするほど美しい女[注釈 3]であった。赤ひげが不在中の夜に、この女が登の部屋に忍び込んでくる。何人もの男を殺した娘と知りながら、喩えようもない美しさに惑わされ隙を見せたとき[注釈 4]に、知らない間にこの女が袖を回し、気がつくと着物の袖で羽交い絞めにされて殺されかけた[注釈 5]ところを間一髪で赤ひげに救われる。怪我を負った登を赤ひげは叱らず「恥じることはないが、懲りるだけは懲りろ」と治療に専念する。そして女人の手術に立ち会い、まだ麻酔が無い時代での開腹手術で手足を固定されて泣き叫び、血が飛び、腸が出てくる余りの凄まじさに失神した。

危篤状態の蒔絵師の六助(藤原釜足)の病状を診て、病歴から胃癌であると登が言うとオランダ医学の専門用語「大機里爾」という言葉を使って赤ひげは「違うぞ。この用語はお前の筆記にもちゃんと使っているぞ」と言われて、登はぐうの音も言えず、自分の不甲斐なさを知る。そして医術といってもあらゆる病気を治すことは出来ず、その医術の不足を補うのは貧困と無知に対する闘いであると赤ひげは諭し、そして「病気の影には、いつも人間の恐ろしい不幸が隠れている」と語る。六助が死んで、娘おくに(根岸明美)から六助の不幸な過去を聞いて登は、改めてその死に顔を見ながら不幸を黙々と耐え抜いた人間の尊さを知り、醜いと感じた自分を恥じた[注釈 6]。そして、むじな長屋で死んだ車大工の佐八(山﨑努)とおなか(桑野みゆき)の悲しい恋の物語を佐八の死の床で聴いて胸に迫るものを感じていた。

登は、御仕着を着るようになり、そして赤ひげの往診に同行するようになった。やがて松平壱岐守(千葉信男)から五十両、両替屋の和泉屋徳兵衛(志村喬)から三十両と実力者から法外な治療代を受け取る赤ひげに驚くが、その金を裏長屋に住む最下層の貧民たちの治療費に充てる赤ひげは、社会が貧困や無知といった矛盾を生み、人間の命や幸福を奪っていく現実に怒り、貧困と無知さえ何とか出来れば病気の大半は起こらずに済むと語った。そして赤ひげは岡場所で用心棒を撃退して12歳のおとよ(二木てるみ)を救い出した。赤ひげは、この娘は身も心も病んでいるからお前の最初の患者として癒してみろ、と彼女を登に預ける。恐ろしく疑い深く、また変に高慢で他人を寄せ付けない娘であった。

許嫁のちぐさに裏切られるなど心の傷を負っていた登だが、人を憎むことしかできず、拗ねてばかりいるおとよの中に、かつてのいじけた自分を見るような気がしていた。登はおとよを自室で昼夜もいとわず看病を続けた。やがておとよは次第に心を開いていき、登が高熱で倒れた時には枕元で看病するのであった。その後おとよは、あるきっかけから長次(頭師佳孝)という7歳の男児と知り合い、貧しくその日の食物にも事欠く長次のために、自分の食事を減らしてまで分け与えるまでに心は優しくなっていった[注釈 7]。だがある日長次の一家が鼠取りを食べて一家心中を図り、養生所に担ぎ込まれてきた。貧しいゆえの所業であったが助かる見込みは無かった。おとよは、この地に伝わる井戸の中にその人の名を呼べば呼び戻せる言い伝えを信じて、必死で井戸の中に向かって長次の名を呼ぶのであった[注釈 8]

登はもはやかつての不平不満ばかりを並べる人間ではなかった。今は裏切ったちぐさを快く許せるまでに成長していた。そしてちぐさの妹であるまさえ(内藤洋子)と夫婦になることとなり、その内祝言の席で、天野源白の推薦で幕府のお目見得医に決まっていたが、小石川養生所で勤務を続けたいとまさえに言い、彼女の気持ちを確かめる。

登は赤ひげと小石川養生所へ続く坂を上りながら、自身の決意を伝える。赤ひげは自分が決して尊敬されるべき人物でなく、無力な医師でしかないと語り、登の養生所に掛ける情熱に対して反対するが、登は諦めなかった。最後に赤ひげは登に「お前は必ず後悔する」と忠告し、登は「試してみましょう」と答える。赤ひげは登に背を向けて小石川養生所の門をくぐっていく。登はその後を追いかけて行く。その上の大きな門はちょうど、二人の人間がしっかりと手をつないでいるかのようにも見えて未来を暗示している。最初に来た時はこんな処へ押し込められるのかと思った登には、この時には素晴らしい門だと思った。[4]

作品解説

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撮影現場の黒澤明(1964年)

本作の舞台となった小石川養生所とは、享保7年(1722年)に、小川笙船の意見で現在の東京都文京区小石川植物園(作中に登場する薬草園は現存する)の一角に徳川幕府が建てた医療福祉施設で、貧しい者や老人たちに施薬し治療を行う機関であった。『赤ひげ』で描かれている時代は、それからおよそ100年後の文政年間である。

黒澤明監督が「日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは映画を創る人々の情熱と誠実以外にはない。私は、この『赤ひげ』という作品の中にスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。」という熱意を込めて作り、シナリオ執筆に2年、撮影に1年半もの期間をかけて制作した[5][6]

なお当初は1964年(昭和39年)末に封切予定であったが、制作の遅れから不可能となり、代わりにゴジラシリーズの『三大怪獣 地球最大の決戦』(本多猪四郎監督)が制作された[7][3][注釈 9]。公開予定が延期に次ぐ延期となり、この作品でプロデューサーを務めた田中友幸は責任をとって「3回辞表を書いた」と語っている[9]

物語は山本周五郎小説赤ひげ診療譚』を基盤としているが、後半のおとよ(演:二木てるみ)の物語はドストエフスキーの『虐げられた人びと』をベースに[10]、山本周五郎の原作とは異なり、同作品に登場する少女ネリーを元にした映画オリジナルの設定人物となっている[注釈 10]

また保本登の両親役には笠智衆田中絹代がキャスティングされたが、黒澤は、自身の先輩である小津安二郎監督作品の看板役者であった笠と、溝口健二作品に多数出演した田中を自らの映画に出演させることにより、2人の日本映画の巨匠監督への敬意を込めたと語っている。

撮影にあたっては、成城にある東宝撮影所にほど近い30,000平方メートルの敷地に、表門、役人詰所、病棟、賄所に至る30数棟、延べ3,000平方メートルを越す広さで「小石川養生所」のセットが建てられた。映画の時代背景は享保年間からおおよそ100年後の文政年間の頃(保本登が長崎でオランダ医学を学んだとすると、シーボルトが来日した文政6年以後でないと史実に合わない)なので、当然セットは100年の古さを出すために古い質感を出す努力を怠らなかった。室の壁から廊下の板も磨いたりしながら、必要以上にある時は無駄と思えるくらいにセットを磨き込んだという。その人間が生活している環境が浮き彫りにされないと、その人間が描けないとして、セット造りにはキメの細かい質感、人間の生活の染み込んだものが要求されたという。黒澤は当時すでに世界的巨匠としての評価を確立していたことから、本作の撮影中に、アメリカからピーター・オトゥールシドニー・ポワチエカーク・ダグラスなどがセットを訪ねている。

タイトルロールの「赤ひげ」を演じた三船敏郎は、白黒映画にもかかわらず本当にひげを赤く染めた。なお、劇中では薬品のため赤っぽく変色しているという説明がされるが、原作では「ひげが赤いわけではないのに何故か赤ひげと呼ばれている」という設定である。三船は髪の毛と髭を自分で脱色したが、この薬品は皮膚や髪を傷め、使うたびに気分が悪くなったという。それを1年半もの間続けている[11]。この演技で『用心棒』に次いで2度目となるヴェネツィア国際映画祭 男優賞を受賞したが、三船にとってこれが最後の黒澤映画となった。黒澤にとっても最後の「白黒映画作品」「泥臭いヒューマニズム作品」となり、翌1966年(昭和41年)に東宝との専属契約を解除し、海外の製作資本へと目を向けることになる。

題名は『赤ひげ』であり、三船が主演であるが、ストーリーは加山雄三が演じる保本登を中心に進行していて、三船の台詞は少ない。物語の最初が小石川養生所に入る保本の後姿であり、ラストも赤ひげに随って小石川養生所に入って行く保本の後姿である。

キャスト

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クレジット順。
以下はノンクレジット。

スタッフ

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以下はノンクレジット。

評価

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原作者の山本周五郎をして「原作よりいい」と言わしめた本作は興行的に大ヒットを収め、この年の日本映画の興行収入ランキング第1位となった[注釈 13]。批評面でも高い評価を受け、海外でもいくつかの賞を受賞した。また、キネマ旬報が発表した、1999年(平成11年)の「オールタイム・ベスト100 日本映画編」で第67位、2009年(平成21年)の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」で第106位に選出されている[14][15]

なおミュージシャン高橋幸宏は、日本映画で最も好きな作品として本作を挙げている[16]

受賞

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部門 対象 結果
ヴェネツィア国際映画祭 1965年 金獅子賞 ノミネート
男優賞 三船敏郎 受賞
サン・ジョルジョ賞 受賞
国際カトリック映画事務局賞 受賞
ゴールデングローブ賞 1965年 外国語映画賞 ノミネート
モスクワ国際映画祭 1965年 ソ連映画人同盟賞 受賞
ブルーリボン賞 1965年 作品賞 受賞
主演男優賞 三船敏郎 受賞
助演女優賞 二木てるみ 受賞
毎日映画コンクール 1980年 日本映画大賞 受賞
男優主演賞 三船敏郎 受賞
キネマ旬報賞 1980年 日本映画監督賞 黒澤明 受賞
フォトグラマス・デ・プラータ 1967年 外国映画俳優賞(Anexo:Fotogramas de Plata al mejor intérprete de cine extranjero 三船敏郎 受賞

脚注

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注釈

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  1. ^ この『赤ひげ』に出演するまで、加山は俳優を続けようか辞めようか悩んでいたが、本作の出演をきっかけに生涯俳優として生きていくことを決意したという。[2]
  2. ^ 加山の本作品への参加により、1964年は加山の主演シリーズである『若大将シリーズ』の制作が見送られた[3]
  3. ^ 初公開時のパンフレットを読むと、シナリオでもこの若い女の名前は表記がなく、ただ「狂女」と書かれていて、赤ひげは生まれつき「色情狂的体質」であると登に言っていた。
  4. ^ 登はこの際に「この女は先天的色情狂だ」と事もなげに言う赤ひげへの対抗心から、それが誤りであることを指摘するつもりであった。
  5. ^ このシーンは香川京子が言い寄るように加山雄三に身を預けながら、右の袖を左に回して、左手で右からの袖を掴んで引っ張ると、加山雄三の胸と両腕が間に挟まって身動きが出来ず、そして右手でかんざしを首筋に突き刺す場面である。これは黒澤明が3日間で考え出した案で、男が女に身動きが出来ないようにされるという設定で、撮影当時助監督にテストさせると本当に動けなくなって監督はご満悦であったという。
  6. ^ おくにを演じた根岸明美は、10分近い長い台詞を本番1回でOKにした。しかし本人はそのラッシュのフィルムを見ている最中に、撮影中のことを思い出し感極まって、試写室を飛び出してしまった。以来、映画本編を一度も見なかったという。
  7. ^ 二木てるみ頭師佳孝とが逢う場面で、1カット6分という長いカットシーンがある。2人は撮影現場で見ていた者らが涙ぐむほどの名演で、黒澤は百点満点だと絶賛している。
  8. ^ 井戸に向かって施療所の賄婦たちが叫ぶシーンでは、効果を出すために女優たちを鉱山に連れて行って叫ばせた。また、井戸の上から下までパンするシーンでは、水面にカメラが写らないよう特別な工夫がなされている。
  9. ^ 書籍『三大怪獣 地球最大の決戦コンプリーション』では、スケジュールの矛盾や本作品が正月映画と決定した事実が確認されていないことなどから『三大怪獣』代打説を否定しており、制作当時の『週刊サンケイ』で憶測や事実誤認に基づく報道がなされ、さらに1981年に発売されたレコード『怪獣王ゴジラ オリジナルBGM傑作集 上』の解説書でこれに基づいたと思われる記述がなされ、1990年代にかけて特撮関連書籍で定着していったものと分析している[8]
  10. ^ このドストエフスキーの作中人物は、やがて同作家の『カラマーゾフの兄弟』中の「無垢な子供の苦しみ」というテーマに発展し、これは黒澤の本作品にもそのまま借用されている。黒澤が原作とは直接関係のないこのテーマを作中に持ち込んだ背景には、前作『天国と地獄』が社会に引き起こした反応に対する黒澤の自責の念があったと見ることもできる。
  11. ^ 森半太夫役の土屋嘉男は、役作りのために減食して4、5キログラムほど体重を落としていたが、撮影の長期化に伴い空腹に耐えられなくなり、三船に相談したところ「隠れて食べればいい」と助言された[12]。その後、黒澤の誕生日会でご馳走を目にした土屋は三船に「監督の目の前でも食う」と宣言して食べ始め、黒澤も自身の誕生日であるため食べるなとは言えなかったという[12]。土屋は『三大怪獣』への出演も予定されていたが、本作品の撮影が長期化したことにより降板している[12][8]
  12. ^ 杉村春子が演じた憎まれ役である娼屋の女主人・きんが、養生所の賄婦たちに大根で殴られるコミカルなシーンがある。賄婦を演じていた女優たちも既にベテランであったが、杉村はその上を行く彼女達の大先輩に当たる存在で、大根で殴るとき遠慮してしまいNGが連発され、撮影のために用意していた大根がすべてなくなってしまったことがある。
  13. ^ 黒澤はこの作品の制作費の調達のために抵当に入れていた自宅を売却することになった。

出典

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  1. ^ キネマ旬報2012、p.220
  2. ^ ラジオ深夜便NHKラジオ第1放送2010年6月8日放送分)「インタビュー・スペシャル 永遠の若大将〜デビュー50周年(1)」「あの作品でですね、黒澤さんが赤ひげ先生で、僕が保本登になっちゃったんですね。本当にそういう感じになったんですよ。保本は養生所に残りますよね。僕は、撮影所というところに残ろうと…完全にダブりました。」と振り返っている。[出典無効]
  3. ^ a b 電撃ホビーマガジン編集部 編「プロジェクト東宝チャンピオンまつり 祭り囃子は遠くに」『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』KADOKAWAアスキー・メディアワークス)〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年11月29日、123頁。ISBN 978-4-04-866999-3 
  4. ^ 1965年4月初公開時の映画パンフレットから「ものがたり」を参照。
  5. ^ 都築2010、p.337
  6. ^ 松田2014、p.149
  7. ^ 「ゴジラ映画を100倍楽しむ100のカタログ 28 『赤ひげ』の代打的中!」『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 新モスラ編』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1992年12月10日、130頁。 
  8. ^ a b 「プロジェクト『三大怪獣 地球最大の決戦』」『三大怪獣 地球最大の決戦 コンプリーション』ホビージャパン、2023年9月29日、81-87頁。ISBN 978-4-7986-3284-1 
  9. ^ 春日太一『天才 勝新太郎』文藝春秋文春新書〉、2010年、[要ページ番号]頁。ISBN 9784166607358[[[Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方|要ページ番号]]][[Category:出典のページ番号が要望されている記事]]頁&rft.pub=[[文藝春秋]]&rft.isbn=9784166607358&rfr_id=info:sid/ja.wikipedia.org:赤ひげ"> 
  10. ^ 都築2010、p.341
  11. ^ 松田2014、p.148
  12. ^ a b c 「土屋嘉男ロングインタビュー」『キングコング対ゴジラ/地球防衛軍』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズ VOL.5〉、1986年3月1日、148頁。ISBN 4-924609-16-1 
  13. ^ a b c d 東宝 映画データベース「赤ひげ」東宝、2017年3月28日閲覧
  14. ^ キネマ旬報2012、p.588
  15. ^ 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開キネマ旬報映画データベース、2017年3月28日閲覧
  16. ^ キネマ旬報』1996年10月上旬号[要ページ番号]

参考文献

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外部リンク

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