調所広丈
日本の官僚・政治家
調所 広丈(ちょうしょ ひろたけ、1840年5月2日(天保11年4月1日)- 1911年(明治44年)12月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の官僚・政治家。官選県知事、元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候、男爵。札幌農学校開校時校長。初代札幌県令。姓の元の読み「ずしょ」を「ちょうしょ」に変更した。ペチカ(pechka)、馬そりなどを北海道に導入した[1]。
調所広丈 ちょうしょ ひろたけ | |
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生年月日 | 1840年5月2日 |
没年月日 | 1911年12月30日(71歳没) |
前職 | 開拓大書記官 |
称号 |
大日本帝国憲法発布記念章 従四位 正五位 |
子女 | 長男・調所恒徳 |
在任期間 | 1894年10月15日 - 1911年12月30日 |
在任期間 | 1886年1月26日 - 1889年6月8日 |
官選 第4代 鳥取県知事 | |
在任期間 | 1892年7月20日 - 1894年9月5日 |
官選 第9代 高知県知事 | |
在任期間 | 1889年6月8日 - 1892年7月20日 |
札幌県令 | |
在任期間 | 1882年2月8日 - 1886年1月26日 |
経歴
編集薩摩藩士・調所広郷の三男として生まれる[2]。戊辰戦争に従軍し、1869年、箱館戦争に参加した。
明治5年3月5日(1872年4月12日)、開拓使に入り七等出仕となる。以後、開拓幹事、開拓少判官、兼札幌学校長、開拓権書記官、兼札幌農学校長、開拓大書記官などを歴任。1882年、札幌県令に就任。
1886年1月、開拓使廃止に伴い元老院議官に就任。1889年6月、高知県知事となる。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行って死傷者を出し、同年7月、鳥取県知事に転じた。1893年10月の大水害の復旧に尽力。1894年9月に同県知事を退任。同年10月15日、貴族院勅選議員に任じられ[3]、死去するまで在任[4]。1899年12月5日、錦鶏間祗候[5]、1900年5月9日には、男爵を叙爵した。墓所は青山霊園(1ロ14-11)。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
親族
編集- 長男:調所恒徳(貴族院男爵議員)[10]
- 六男:調所武光(工学士。1885年生まれ。京都帝国大学土木工学科卒業後京都府土木部長などを務めた)[11]
- 五男・調所定の長男:調所五郎(慶應義塾大学経済学部学生。1909年生まれ。1932年、坂田山心中事件で死亡)
脚注
編集- ^ 調所広丈 コトバンク デジタル版 日本人名大辞典 Plus
- ^ “経済破綻からの脱出の道 穂森幸一(125)”. クリスチャントゥデイ. (2019年2月21日) 2020年2月28日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、18頁。
- ^ 『官報』第4930号、明治32年12月6日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、91頁。
- ^ 調所武光『人事興信録』9版(昭和6年)
参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 「錦鶏間祗候正三位勲二等男爵調所広丈」 アジア歴史資料センター Ref.A10112720300 (内閣、明治44年)
関連項目
編集- 坂田山心中事件 - 広丈の孫(五男・定の子)が起こした事件で、映画化もされた。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 調所(広丈)家初代 1900年 - 1911年 |
次代 調所恒徳 |