西嶋八兵衛
1596-1680, 江戸時代の土木技術家
西嶋 八兵衛(にしじま はちべえ)は、日本の武士。江戸時代に活躍した土木技術家。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 文禄5年/慶長元年(1596年) |
死没 | 延宝8年3月20日(1680年4月19日) |
改名 | 諱:之尤、之友 |
別名 | 俳号:木端、拙翁 讃岐の禹王 |
墓所 | 三重県伊賀市正崇寺 |
官位 | 正五位(大正4年追贈) |
主君 | 藤堂高虎→生駒高俊→藤堂高次→高久 |
藩 | 津藩→高松藩→津藩 |
氏族 | 西嶋氏 |
父母 | 父:西嶋之光、母:藤堂虎高の娘[1] |
妻 | 藤堂高刑娘 |
子 | 養子:之継(藤堂高経実子) |
略歴
編集伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
- 1596年、遠江国(現在の静岡県)の浜松に生まれる。
- 1612年、伊勢国(現在の三重県)津藩主藤堂高虎に仕える。
- 1616年、大坂城修築工事に関わる。
- 1624年、讃岐国(現在の香川県)高松藩主生駒高俊(高虎の孫)に招かれる。
- 1627年、高松藩奉行に就任し、竜満池、小田池(ともに高松市)、福江大池を築く。
- 1628年、400年以上廃池になっていた満濃池(まんのう町)の改修に着手し、山大寺池(三木町)を築き、三谷池(三郎池、高松市)を改修する。
- 1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修する。
- 1631年、満濃池の改修が完了する。
- 1635年、神内池を築く。
- 1637年、香川郡香東川を付け替え、東の流れの跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭を行い、高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾する。
- 1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成し、伊勢国に帰郷する。讃岐では、90あまりのため池を築く。
- 1645年、津藩の江戸家老加判役となり、1000石を領する。
- 1646年、藩主藤堂高次に伴って伊勢に帰国し、ため池の新設・修理を行なう。
- 1647年、伊賀国の新田開発を行なう。
- 1648年、津藩の城和加判奉行となる。
- 1658年、伊賀奉行となって伊賀国上野へ転居するが、城和加判奉行・中小路五郎右衛門の急逝により、その後任として再び城和加判奉行に就任。
- 1677年、城和加判奉行を致仕して引退。
- 1680年、伊賀国上野にて85歳で死去する。
平成17年(2005年)6月、西嶋八兵衛の功績を記念して、栗林公園内に銅像が建てられた。また、三重県津市丸之内の国道23号脇にも、銅像がある。
脚注
編集- ^ 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 藤堂氏」『寛政重修諸家譜』 114巻 。