裴敬憲
経歴
編集裴宣の次男として生まれた。若くして広く学問し、弟たちを教育した。利欲に乏しく、郡が功曹として召し出そうとしたときも応じず、諸府が呼び出そうとしたときも、まず弟たちを仕官させたため、そのふるまいは賞賛を受けた。高陽王元雍により秀才に挙げられ、射策に及第し、太学博士に任じられた。隷書と草書を得意とし、音律を解し、五言詩を作って、その才能は当時に名高かった。中山王元熙が鄴に赴くにあたって、当時の賢者たちが河梁で送別の会を開き、別離の賦詩を詠んだが、敬憲の作ったものが最も優秀と評価された。525年(孝昌元年)、病のため死去した。享年は33。郷里ではかれの人柄が惜しまれ、孝昌年間に陳双熾の反乱軍が荒らし回ったときにも、かれの家だけは焼かれることがなかった。530年(永安3年)、中書侍郎の位を追贈された。諡は文といった。