藤原実教

平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。藤原家成の六男。正二位・中納言。子に中納言の妻。子孫は山科家

藤原 実教(ふじわら の さねのり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家末茂流、中納言藤原家成の六男。官位正二位中納言

 
藤原実教
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 久安6年(1150年
死没 嘉禄3年4月3日1227年5月19日
別名 正字:實敎
官位 正二位中納言
主君 後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 藤原北家末茂流
父母 父:藤原家成、母:藤原経忠の娘
兄弟 隆季家明成親家教盛頼実教、仁性、成真、藤原忠雅室、源定房室、徳大寺公親室、経子三条実長室、滋野井実国室、源雅頼室、藤原重家室、藤原信頼室、源資賢
藤原光子(藤原光隆の娘)
公頼公基公長公広宗明藤原範能室、中納言室、藤原兼光
養子:教成
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経歴

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参議藤原公親の猶子となる。鳥羽院政期末の久寿3年(1156年従五位下叙爵し、仁安3年(1168年)従五位上・近江守に叙任される。

嘉応3年(1171年右衛門佐に任ぜられると、承安2年(1172年左近衛権少将、承安3年(1173年正五位下、承安4年(1174年従四位下に叙される。治承元年(1177年)従四位上と武官を務めながら昇進する。寿永2年(1183年正四位下・右近衛中将に叙任され、文治2年(1186年蔵人頭(頭中将)に補せられた。

文治4年(1188年)に参議となり公卿に列す。議政官として近衛中将・播磨権守を兼帯し、文治5年(1189年従三位建久元年(1190年正三位後白河院政期末にかけて昇進を続けた。また、後白河法皇の命令を受けて、法皇の寵妃である丹後局の前夫の子である教成を養子としている。

建久3年(1192年)後白河法皇が没すると、翌建久4年(1193年)参議を辞して、左兵衛督に任ぜられる。のち、右衛門督・皇后宮権大夫を務め、この間の建久8年(1197年従二位に叙せられている。建久9年(1198年)参議に還任されると、翌正治元年(1199年正二位権中納言に叙任され、建仁2年(1202年)中納言に昇進した。

建暦2年(1212年)に出家するが、以後も処々に出仕を続けたという[1]嘉禄3年(1227年)3月26日に病を発し、4月3日の朝に薨去享年78。

人物

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糸竹音曲に携わったという[1]後鳥羽天皇の師でもあった。

なお実教は、下記の史料から漢字を書けなかった可能性が高い。

臨時祭の日程や使者を決めて定文にそれらを書いて奏上する臨時祭定で執筆役を務めた際、漢字を知らないのでその場では書くふりをして、懐中に準備したものと取り替えたという[2]。実教が没した翌日、藤原定家が実教の評を『明月記』に書いているが、「実教は漢字を書かなかったけれども、管弦の道に秀でていただけでなく、存命中は忠節を怠らなかった。公事を習って口頭で巧みに説いた。出家してもなお出仕し、人との付き合いもやめなかった。事を行うにあたって古老の中心的存在であった」と述べている。

一方、実教は公事に際して漢字を書けないことを記憶力で補っていたらしく、承元4年(1210年)に賀茂社で臨時神楽を行おうとした時、実教は神楽歌「宮人」が歌われた事例を2度で、いつ、どこで、誰が唱えたかを具体的に語ったという(『古事談』[3][4]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『明月記』嘉禄3年4月3日条
  2. ^ 玉葉』文治3年(1187年)二月二十九日条。
  3. ^ 『古事談』6-28
  4. ^ 鈴木理恵「「一字不通」の平安貴族」、大戸安弘・八鍬友広 編『識字と学びの社会史 : 日本におけるリテラシーの諸相』思文閣出版、2014年10月、pp. 47-89。ISBN 978-4-7842-1772-4
  5. ^ 明月記嘉禄3年4月4日条によると、藤原基宗の猶子。『公卿補任』等によると実は基宗の子で、実教の猶子

参考文献

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  • 『公卿補任 第二篇』黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館、1982年。
  • 『尊卑分脈 第二篇』黒板勝美・国史大系編修会 編、吉川弘文館、1987年。