芳賀高継
芳賀 高継(はが たかつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。下野宇都宮氏の家臣。下野国真岡城主。
芳賀高継(清巌寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 文禄元年(1592年) |
改名 | 高規(初名)、高継 |
墓所 | 栃木県宇都宮市の清巌寺 |
官位 | 伊賀守 |
主君 | 宇都宮広綱、国綱 |
氏族 | 芳賀氏 |
父母 | 父:芳賀高経、養父:芳賀高定 |
兄弟 | 高照、高継、那須高資室、江戸通泰正室 |
子 | 養子:高武 |
出自
編集略歴
編集下野宇都宮氏家臣・芳賀高経の子として誕生。
天文10年(1541年)、父・高経が主君・宇都宮尚綱と対立し反乱を起こすも敗死し、兄・高照も弘治元年(1555年)に芳賀高定に追い詰められ自害すると、高継は益子氏の下に身を寄せる。その後、高定の養子となり家督を継いだ。
永禄9年(1566年)、主君・宇都宮広綱の名代として軍勢を率いて小田氏治を攻撃する。翌年も広綱に代わり出陣した。天正4年(1576年)に広綱が没すると子・国綱に仕え、後北条氏と巧みな外交をしながら独立を保ち、その一方で結城氏や佐竹氏、白河結城氏と手を結んでこれに対抗した。
天正年間(1580年代半ば)に、宇都宮広綱の正室・南呂院らの要望で、国綱の弟・時綱(後の芳賀高武)を養子とし、宇都宮に近い芳賀家の飛山城に移った。天正17年(1589年)には家中の勢力争いから益子氏を攻め滅ぼすが、高継の親北条路線が親佐竹路線を採る主君・国綱と反目し関係が悪化。同年、後北条氏へ寝返り北条氏邦らと共に手勢を率いて多気城(多気山城)を攻撃する。宇都宮氏家臣・多功綱継の活躍によって退却した[1]が、復帰を許された。翌天正18年(1590年)には国綱と共に佐竹義宣に小田原への参陣を勧めている[2]。
脚注
編集出典
編集- 『宇都宮興廃記』
- 『後陽成天皇紀』