聶 友(じょう ゆう、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。文悌揚州豫章郡新淦県の人。『三国志』諸葛恪伝注に引く『呉録』に略伝がある。

経歴

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聶友には弁舌の才があり、若くして県吏となった。

虞翻交州に配流された時に、聶友は虞翻を見送った。この時、虞翻は聶友と語り合い、聶友の才能を高く評価した。虞翻は豫章太守謝斐に手紙を送り、聶友を功曹に用いるように勧めた。謝斐は先任の功曹を説得して職を譲ってもらい、聶友を功曹に用いた。

使者として都の建業に至った際に、諸葛恪は彼を友人としての交わりを結んだ。当時の世評では、顧譚顧承が優れた人物として双璧をなしていたが、諸葛恪が聶友に二人と並んだ位置を占めさせようとした事から、聶友は広くその名を知られるようになった。

後に将軍となり、赤烏5年(242年)に諸葛恪の推薦で珠崖太守となり、陸凱に随って儋耳遠征の任を受けた。遠征の成果については記載がない[1]。帰還後に丹陽太守に任ぜられた。

建興2年(253年)、権力を握った諸葛恪はへの遠征を目論んだ。聶友はその無謀を諫めたが聞き入れられなかった。結局、諸葛恪は遠征の失敗により権勢を失い孫峻に殺害され、孫峻は聶友を忌み嫌い鬱林太守に左遷しようと欲した。これにより、聶友は病を発して憂死した。享年33[2]

参考文献

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脚注

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  1. ^ の文人の趙一清は、干宝著『捜神記』にはこの時の「聶友射鹿」の話が載っているとしているが、現存する20巻の中にはこの話は存在していない。盧弼著『三国志集解』にこの話がみられる。
  2. ^ 虞翻を見送ってから少なくとも30年以上、虞翻が死去してから20年前後は経過していると思われるので、聶友の享年には誤記の疑いがある。