耶律和尚
経歴
編集季父房の末裔。滑稽を得意とした。重熙初年、祗候郎君に補任された。興宗は親族を重用したが、中でも和尚をもっとも寵愛した。和尚は宴席のたびに興宗のそばにいたが、冗談であっても一言の誤りもなく、このためますます興宗に重んじられた。積慶宮使・永興宮使を歴任し、同知南院宣徽使事・南面林牙に累進した。重熙16年(1047年)、懐化軍節度使として出向したが、まもなく御史大夫として召還された。
重熙23年(1054年)、天平軍節度使・検校太師の位を加えられた。重熙24年(1055年)、中京路按問使に転じた。後に死去した。
和尚はたびたび親友のために財産を分け与えて、みなに親しまれ重んじられた。しかし酒におぼれて仕事はしなかったので、仕事を任されることはなかった。ある人が深酒をいさめると、和尚は「わたしは酒の害を知らないではないが、人生をかえりみると風燈石火のようなものであり、どうして飲まないでいられよう」と答えた。晩年は酒への耽溺がひどくなり、当時の人に「酒仙」と称された。
伝記資料
編集- 『遼史』巻89 列伝第19