紀元前390年(きげんぜん390ねん)は、ローマ暦の年である。

世紀 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀
十年紀 前410年代 前400年代
前390年代
前380年代 前370年代
前393年 前392年 前391年
紀元前390年
前389年 前388年 前387年

当時は、「アンブストゥス、ロングス、アンブストゥス、フィデナス、アンブストゥス、コルネリウスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元364年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前390年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

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できごと

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共和政ローマ

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  • 7月18日アッリアの戦い紀元前387年とする説もある)
    • イタリアアドリア海沿岸にいたセノネス族 (Senones) の族長ブレンヌスが、ガリア・キサルピナの軍勢を率いてローマを攻撃した。ガリア勢は、防御され抜かれたカピトリヌス(現在のカンピドリオの丘)を除いて、ローマ全市を蹂躙した。ガリア勢が町を破壊していくのを目の当たりにしたローマ人たちは、身代金を支払うことにした。金額は黄金1000ポンド(327kg)で合意を得た。
    • ブレンヌスがローマ人たちと金の重量をめぐって口論していると、自らローマを去っていた前独裁官マルクス・フリウス・カミルスが、一軍を率いて現れ、ブレンヌスが金を持ち去ることを阻止した。まず、ローマ市内で市街戦が戦われ、ガリア勢は、市内から押し出された。次いで、市街地から離れて第二の戦いがあり、カミルスは侵略者を打ち負かした。こうしてローマを救ったことから、カミルスは「ローマ第二の創建者」と称されるようになった。

エジプト

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中国

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  • が武城で戦った。
  • を攻撃し、襄陵を奪った。
  • が斉軍を平陸で破った。

建築

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誕生

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死去

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脚注

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注釈

出典

関連項目

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