竹内 玄同(たけのうち げんどう、文化2年(1805年) - 明治13年(1880年1月12日)は、幕末蘭方医。幕府奥医師。名は幹。

藤浪剛一『医家先哲肖像集』より竹内玄同

経歴

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文化2年(1805年)、加賀国大聖寺藩医、竹内玄立の二男として生まれ、越前国丸岡藩医の叔父の家を継ぐ。長崎鳴滝塾で、シーボルトよりオランダ医学を学ぶ。安政5年(1858年)、大槻俊斎伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。同年7月7日、将軍徳川家定の急病に際し丸岡藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼に叙せられる。文久2年(1862年)12月16日、戸塚静海とともに法印に昇叙、渭川院と号す。将軍徳川家茂が大坂城で病んだ際、蘭方医師団の筆頭の位置にあったため辛苦著しく、ために失明したという。明治13年(1880年)没。青山梅窓院に葬る。子息、竹内正信は宮中の侍医を勤めた。

大正13年(1924年)、正五位を追贈された[1]

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51