穂積真六郎
朝鮮総督府官僚、参議院議員
穂積 真六郎(ほづみ しんろくろう、1889年(明治22年)6月30日[1] - 1970年(昭和45年)5月23日[2])は、朝鮮総督府官僚、参議院議員(1期)。
穂積真六郎 ほづみ しんろくろう | |
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生年月日 | 1889年6月30日 |
出生地 |
日本 東京府東京市牛込区 (現東京都新宿区) |
没年月日 | 1970年5月23日(80歳没) |
出身校 |
東京帝国大学法科大学政治科卒業 (現東京大学法学部) |
前職 | 朝鮮商工会議所会頭 |
所属政党 |
(無所属→) 緑風会 |
称号 | 従四位 |
配偶者 | 穂積敏子 |
親族 |
祖父・渋沢栄一(貴族院議員) 叔父・阪谷芳郎(大蔵大臣) 叔父・穂積八束(貴族院議員) 父・穂積陳重(枢密院議長) 兄・穂積重遠(貴族院議員) 義兄・石黒忠篤(農商大臣) 従弟・阪谷希一(貴族院議員) 従弟・渋沢敬三(大蔵大臣) |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1950年5月2日 |
経歴
編集東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)出身[1]。第二高等学校を経て[3]、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した[1]。朝鮮総督府試補、同事務官、京畿道財務部長、釜山税関長、新義州税関長、総督官房会計課長、財務局税務課長、総督官房外事課長などを経て、殖産局長に就任した[1][4]。
1941年(昭和16年)に退官した後は、京城電気株式会社取締役、京城商工会議所会頭、朝鮮商工会議所会頭、中央日韓協会副会長を務めた[4]。
1947年(昭和22年)、第1回参議院議員通常選挙に出馬し、当選を果たした。
栄典
編集親族
編集- 渋沢栄一 ‐ 母方祖父
- 穂積陳重 - 父。男爵。東京帝国大学教授。枢密院議長。
- 穂積歌子 - 母。歌人。渋沢栄一長女。
- 穂積重遠 - 兄。男爵。東京帝国大学教授。貴族院議員。
- 穂積律之助 - 兄。海軍造船少将。
- 芳賀矢一 - 妻・敏子の父。東京帝国大学教授。國學院大學学長。
- 尾高朝雄 - 敏子の妹の夫。朝雄の母・文子は歌子の異母妹であり、朝雄と真六郎は従兄弟でもある。
- 阪谷芳郎 ‐ 母の妹の夫
- 石黒忠篤 - 義兄[7]。
穂積家系図
鈴木重麿(宇和島藩士) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重樹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重頴(第二十国立銀行頭取) | 穂積陳重 | 穂積八束 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重遠 | 穂積律之助 | 穂積真六郎 | 孝(渋沢元治妻) | 光子(石黒忠篤妻) | 晴子(市河三喜妻) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重行 | 和歌子(八十島義之助妻) | 岩佐美代子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集参考文献
編集- 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
- 戦前期官僚制研究会 編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』秦郁彦、1981年。