稲垣重綱
安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名
稲垣 重綱(いながき しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川家の家臣。上野国伊勢崎藩第2代藩主、越後国藤井藩主、同三条藩主、三河国刈谷藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家2代。
時代 | 安土桃山時代 ‐ 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正11年(1583年) |
死没 | 承応3年1月8日(1654年2月24日) |
戒名 | 法性院光岳宗本 |
官位 | 従五位下、摂津守 |
幕府 | 江戸幕府大坂城代 |
主君 | 徳川秀忠 |
藩 | 上野国伊勢崎藩主→越後国藤井藩主→同三条藩主→三河国刈谷藩主 |
氏族 | 稲垣氏 |
父母 | 父:稲垣長茂 |
兄弟 |
重綱、則茂、重大、大久保忠知正室、 石川政次正室ら |
妻 | 森川氏俊娘 |
子 |
重昌、茂門、重氏、本多忠相正室、 真田信政正室、本多正直正室、 安藤直政継室、石川政信継室、 板倉重直正室、大久保忠信正室、 中島重貞室 |
稲垣氏は文明年間に、伊勢国から三河国宝飯郡に移住した地侍の家系である。
天正11年(1583年)、三河牛窪城主・牧野康成の家臣(のち徳川氏の直参家臣→伊勢崎藩初代藩主)・稲垣長茂の長男として生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)の居城・信州上田城攻めに参加した。
慶長17年(1612年)、父・長茂の死により家督と上野伊勢崎藩1万石の所領を継ぐ。慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては酒井家次隊に属して参戦し、戦功を挙げたことから元和2年(1616年)、越後藤井藩2万石に加増移封された。元和6年(1620年)、さらに3000石加増のうえ、越後三条城に居城を移した。慶安元年(1648年)から慶安2年(1649年)の間には、大坂城代も務めている。
慶安4年(1651年)、三河刈谷に移封され、承応3年(1654年)1月8日、72歳で死去した。嫡男の重昌は既に死去していたため、重昌の長男・重昭が跡を継いだ。
系譜
編集父母
- 稲垣長茂(父)
正室
- 森川氏俊の娘
子女