白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10月21日[1][2])- 1941年昭和16年)4月20日[1][2])は、日本の内務官僚実業家。官選栃木県知事日本郵船社長、八幡製鉄所長官。

しらに たけし

白仁武
生誕 1863年12月1日(文久3年10月21日
柳河藩福岡県
死没 1941年昭和16年)4月20日
国籍 日本
出身校 帝国大学法科大学政治学科
職業 内務官僚実業家、官選栃木県知事関東都督府民政長官、内閣拓殖局長官、日本郵船社長、官営八幡製鉄所長官。
配偶者 政(陸軍軍人川崎祐名の子)
白仁成功
親戚 近藤廉平浜口檐(息子嫁の親族)。石渡忠四郎平田敬一郎(娘婿の親族)。
受賞 勲一等瑞宝章
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経歴

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柳河藩主立花家家従・白仁成功[3][4][注釈 1]の長男として生まれる[2]。1883年(明治16年)家督を相続[3]柳河中学共立学校大学予備門を経て[2]、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業[2][3]。同年7月、内務省に入り[1]内務試補として会計局に配属された[2]

1890年11月、県治局勤務となる[2]。以後、内務省参事官北海道庁参事官・内務部郡治課長、同部地理課長、文部書記官拓殖務書記官、内務事務官、内務書記官・大臣官房北海道課長、内務省神社局長兼総務局北海道課長などを歴任[1][2][3]

1904年(明治37年)1月、栃木県知事に就任[2][3]足尾鉱毒事件への対応のため渡良瀬遊水地の建設を推進した[3]。1906年(明治39年)8月、文部省普通学務局長に転じた[2]。以後、関東都督府民政長官、内閣拓殖局長官を歴任[2]。1918年(大正7年)2月、製鉄所長官に就任し[1][2]、1924年(大正13年)11月に退官した[2]

その後、日本郵船社長に就任し、1929年(昭和4年)5月まで在任した[2]

栄典

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位階
勲章等

親族

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脚注

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注釈
  1. ^ 『日本近現代人物履歴事典』では白仁成[2]
出典
  1. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』981頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本近現代人物履歴事典』272頁。
  3. ^ a b c d e f 『新編日本の歴代知事』265頁。
  4. ^ 白仁武 (初版 [明治36(1903)年4月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2022年12月15日閲覧。
  5. ^ 『官報』第2614号「叙任及辞令」1892年3月21日。
  6. ^ 『官報』第3318号「叙任及辞令」1894年7月21日。
  7. ^ 『官報』第5845号「叙任及辞令」1902年12月25日。
  8. ^ 『官報』第319号「叙任及辞令」1913年8月21日。
  9. ^ 『官報』第1688号「叙任及辞令」1918年3月22日。
  10. ^ 『官報』第3235号「叙任及辞令」1923年5月15日。
  11. ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
  12. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  13. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  14. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  15. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  16. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  17. ^ 人事興信所「人事興信録 7版」、1925年。
  18. ^ 人事興信所「人事興信録 10版(昭和9年) 上」。1934年。
  19. ^ 人事興信録「人事興信録 第17版 下」。1953年

参考文献

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  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
公職
先代
服部漸
長官事務取扱
  製鉄所長官
1918年 - 1924年
次代
副島千八
長官事務取扱
先代
元田肇(→廃止)
拓殖局総裁
  拓殖局長官
1917年 - 1918年
次代
有松英義
先代
中村是公
  関東都督府民政長官
第3代:1908年 - 1917年
次代
宮尾舜治
学職
先代
(新設)
  旅順工科学堂学長
1909年 - 1917年
次代
富田忠詮
学長事務取扱
ビジネス
先代
伊東米治郎
日本郵船社長
第4代:1924年 - 1929年
次代
各務鎌吉