片倉村廉
片倉 村廉(かたくら むらかど)は、江戸時代中期の仙台藩伊達家重臣。通称は小十郎。白石片倉家8代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保12年(1727年) |
死没 | 明和5年6月23日(1768年8月5日) |
改名 | 繁九郎・勇之助(幼名)→景寛(初名)→村廉 |
別名 | 通称:小十郎 |
墓所 | 宮城県白石市の片倉家廟所 |
主君 | 伊達宗村→重村 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 松前氏→白石片倉氏 |
父母 |
松前広高 片倉村定 |
兄弟 | 松前脩広、村廉、秋保盛昌 |
妻 | 伊達吉村娘・郷姫 |
子 | 景義、薫子、村典 |
略歴
編集享保12年(1727年)、仙台藩家老・松前広高の次男として誕生。幼名繁九郎、勇之助。初名は景寛。祖父は3代片倉景長の実弟松前為広。
縁戚の白石領主・片倉村定の養子となる。藩主世子・宗村の遊び相手を務めた。
寛保3年(1743年)、養父の隠居により家督を相続して白石領主となり、藩主・宗村の偏諱を受け「村廉」と諱を改める。同年、宗村の藩主襲封の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。同年、宗村に牧場開設の命を受け、翌延享元年(1744年)刈田郡七日原に開設する。寛延元年(1748年)、宗村の妹・郷姫と結婚する。郷姫との間に、一門伊達村倫室となる薫姫を儲けた。宝暦2年(1752年)に正室郷姫が死去する。宝暦4年(1754年)、庶子・景義を嫡子と定めるも、宝暦10年(1760年)に没したため、その弟繁五郎(村典)を嫡子とする。宝暦6年(1756年)、藩主・伊達重村の藩主襲封の御礼言上の際に、将軍吉宗に拝謁する。同年幕府監察使が、白石城を訪れ供応にあたる。
代表的な和歌
編集畏しな道ある御代は花鳥の 色香もおのか時をたかへす(宮城百人一首)
系譜
編集参考文献
編集- 東京大学史料編纂所「片倉家譜」
- 東京大学史料編纂所「伊達族譜」
- 東京大学史料編纂所「伊達世臣家譜」