無記
無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として形而上学的な[1]、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、このような態度が採られた。
仏教用語 無記 | |
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パーリ語 | avyākata |
サンスクリット語 | avyākṛta |
中国語 | 無記 |
日本語 | 無記 |
英語 | unanswered questions |
その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。無記答(むきとう)、捨置記(しゃちき)ともいう[2]。学説においては、釈迦は中道を意図したとの主張がある[1]。
また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう[3]。
我について
編集仏教では無我を説き、常一主宰な我を否定したうえで輪廻すると説く[4]。
アーナンダ経
編集パーリ仏典無記相応のアーナンダ経では、釈迦はヴァッチャゴッタ姓の遊行者の以下の問いかけに対し、どちらにも黙して答えなかったと記されている[1]。
- 我(attā)はあるか?
- 我はないのか?
この問いに答えなかった理由は、あると答えれば常住論者(sassatavādā)に同ずることになり、ないと答えれば断滅論者(ucchedavādā)に同ずることになるからと説いている[1]。
一切漏経
編集パーリ仏典一切漏経では、我への愛着につながる「無駄な探求」として、以下の16の問いかけを挙げている[5]。
- 私は過去に存在したのか?
- 私は過去に存在しなかったのか?
- 過去の私は何物だったのか?
- 過去の私はどのようにあったのか?
- 過去の私は何物から何物となったのか?
- 未来に私は存在するのか?
- 未来に私は存在しないのか?
- 未来の私は何物となっているか?
- 未来の私はどうなるのか?
- 未来の私は何物から何者となるのか?
- 私は存在しているのか?
- 私は存在していないのか?
- 私は何物なのか?
- 私はどのようであるか?
- 私はどこから来たのか?
- 私はどこへ行くのか?
十無記
編集パーリ仏典中部小マールンキャ経では十無記について記述されている[1][6]。
釈迦は、修行中のマールキヤプッタ尊者より、これまで釈迦が回答を避けてきた以下10つの疑問について回答を求められた。
- 世界(loka)は常住(sassato)であるのか
- 世界は無常(asassato)であるのか
- 世界は有限(antavā)であるのか
- 世界は無限(anantavā)であるのか
- 生命(jīvaṃ)と身体(sarīra)は同一か
- 生命と身体は別個か
- 修行完成者(如来)は死後存在するのか
- 修行完成者(如来)は死後存在しないのか
- 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
- 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
これに対して釈迦は、毒矢のたとえを説き、「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」と回答した。
問1-6については、釈迦は自説経において群盲象を評すの寓話を挙げ、「ある一部分のみを見る人たちは、その一部分に執着して論争する」と説く。
問5-6については、釈迦は相応部無明縁経において中道を説いて否定し、続いて十二縁起を指し示している。
問7-10については、釈迦は火ヴァッチャ経において「存在しない(将来に生じない性質のものとなっている)」と答えを与えている[7]。
善でも悪でもない無記(唯識思想、倶舎論など)
編集仏教の唯識思想においては、(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識の更に深層にある第八階層の)阿頼耶識は無記であるとされる。自己の過去の業は善あるいは悪であるが、現在の自己を成り立たしめている根源そのものである阿頼耶識は、過去の業から独立している(異熟である)とされるためである。阿頼耶識は善・悪の種子を蔵する拠り所となるが、もしもその阿頼耶識自体が本質的に悪ならば、我々はいつまでも迷いの世界を脱することができず、またもしも本質的に善ならば、迷いの世界はありえないことになるため、阿頼耶識そのものは、善・悪いずれの性質をも帯びない無記であるとされている[8]。なお、善でも悪(=不善(ふぜん)[9])でもない中性のものを指す「無記」の用語は、倶舎論[10]を含め仏教全般で用いられることがある[2]。善、悪(=不善)、無記とをあわせて三性(さんしょう)という[2]。
この無記のうち、煩悩のけがれのある無記を有覆無記(うふくむき、うぶくむき梵: nivṛtāvyākṛta)と、煩悩のけがれのない無記を無覆無記(むふくむき、むぶくむき、梵: anivṛtāvyākṛta)という[2]。なお、阿頼耶識は、さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で、「無覆無記」という。また、(六識の更に深層にある第七階層の)末那識は、我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害があることから「有覆無記」という[11] 。
脚注
編集- ^ a b c d e 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』新潮社、2015年4月、84-88頁。ISBN 978-4103391715。
- ^ a b c d 岩波仏教辞典, p. 781.
- ^ 横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、114頁。
- ^ 清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年、69頁。ISBN 978-4480078639。
- ^ パーリ仏典, 中部 2.Sabbāsava Sutta, Sri Lanka Tripitaka Project
- ^ 長尾雅人(責任編集)『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』中央公論社、1969年4月、473-478頁。
- ^ 清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年、138-140頁。ISBN 978-4480078639。
- ^ 横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、115-118頁。
- ^ 櫻部 1981, p. 73.
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 79.
- ^ 横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、118-119頁。
出典
編集- 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 櫻部建、上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1。(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)
- 櫻部建『倶舎論』大蔵出版、1981年。ISBN 978-4-8043-5441-5。
関連項目
編集- 輪廻
- 流出説
- なぜ何もないではなく、何かがあるのか - 形而上学における論題のひとつ