渋沢武之助
渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉12月26日[1] - 1946年〈昭和21年〉6月4日[2])は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の二男[3][4]。族籍は東京府平民[5][6]。
人物
編集渋沢栄一の二男で、渋沢正雄、渋沢秀雄の兄、渋沢篤二の弟、渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父[3][4][5]。第一高等学校を経て[3]、東京帝国大学法科大学に学んだが[4][5]、病を得て半途退学し実業界に入った[6]。
石川島飛行機製作所社長[7]、国産電機相談役[8]、国際産業[4]、十勝開墾、仏国通商、浅野セメント各取締役[5][7]、日本醋酸製造、大島製鋼、渋沢同族、浅野セメント、東京石川島造船所各監査役[4][5]、帝国飛行協会理事などをつとめた[4]。
1914年、分家した[3][4]。趣味は運動[3]。住所は東京市滝野川区西ヶ原町[4]。晩年は戦災で家を焼かれ、自宅の自動車小屋を改造したバラックの中で病死した[9]。
家族・親族
編集- 渋沢家
→詳細は「渋沢栄一 § 家族・親族」を参照
- 父・栄一(1840年 - 1931年、埼玉県大里郡八基村出身[10]、東京府華族[11]、実業家)[10]
- 母・かね(東京、伊藤八兵衛の長女)[11]
- 兄・篤二[11](1872年 - 1932年、渋澤倉庫取締役会長)
- 弟
- 姉、妹[11]
- 妻・美枝(1894年 - 1976年、東京、福原信三の妹[5]、福原有信の四女[11])
- 養子・言忠(1912年 - ?、古河合名会社勤務、新立川航空機常務、長女の夫、男爵・津軽承靖の弟[4][8])承靖・言忠兄弟の父・津軽行雅は細川行真の庶子で津軽承昭の娘(庶子)の婿[12]。
- 長女・昭子[4](1915年 - ?)
- 親戚
系図
編集→「渋沢氏 § 系図」を参照
脚注
編集- ^ 第29巻(DK295007k) 本文|デジタル版『渋沢栄一伝記資料』
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)p.725
- ^ a b c d e 『帝国大学出身名鑑』シ28頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第12版 上』シ51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月23日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第7版』し71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月23日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第5版』し65頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月25日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第10版 上』シ41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月23日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第13版 上』シ47頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月24日閲覧。
- ^ 『なんだか・おかしな・人たち』文芸春秋編、1989年、文春文庫、p184
- ^ a b 『快傑伝 第1編』615-636頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第6版』し62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月23日閲覧。
- ^ 津軽承昭『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 伊藤痴遊編『快傑伝 第1編』忠誠堂、1926年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。