水谷勝俊
戦国時代から江戸時代初期の武将・大名。常陸下館藩初代藩主。水谷治持の次男。水谷氏18代。常陸下館藩主家の祖。従五位下、伊勢守、兵部大輔、右京大夫。
水谷 勝俊(みずのや かつとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。常陸国下館藩初代藩主。
水谷勝俊像(高梁市歴史美術館蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文11年10月12日(1542年11月18日) |
死没 | 慶長11年6月3日(1606年7月7日) |
改名 | 弥五郎(幼名)→勝俊→方休(号) |
戒名 | 後定林寺靠山全虎大居士 |
墓所 | 茨城県筑西市岡芹の定林寺 |
官位 | 従五位下、伊勢守、兵部大輔、右京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 結城晴朝→秀康→徳川家康→秀忠 |
藩 | 常陸下館藩主 |
氏族 | 水谷氏 |
父母 | 父:水谷治持、養父:水谷正村 |
兄弟 | 正村、勝俊 |
妻 | 正室:堀田正吉娘 |
子 | 勝隆 |
生涯
編集天文11年(1542年)、水谷治持の次男として誕生。永禄9年(1566年)、兄・正村と共に結城晴朝に従って上杉謙信と戦った。永禄12年(1569年)、正村の隠居により家督を継いだ。
天正13年(1585年)には兄と共に下野国田野城を攻略して下野方面にも勢力を広げた。小田原征伐後、結城氏の与力大名となる。なお、この時、晴朝の養子に徳川家康の次男・秀康を迎える話が出た際には、正村と家康の間にかねて親交があった事から、勝俊が徳川氏との交渉に加わっている。文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役においては肥前国名護屋城に駐留した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、皆川広照の従弟にあたるという経緯から東軍に与した。このとき、子・勝隆が西軍に人質として捕らえかけられている。戦後、下野において佐竹義宣を牽制した功績を賞されて所領を安堵され、秀康が越前国北ノ庄に転封されると正式な独立大名となった。代わりに甥・正慶が秀康に仕え、越前移封に従っている。
慶長11年(1606年)6月3日、死去。享年65。跡を長男・勝隆が継いだ。