武藤嘉一
武藤 嘉一(むとう かいち、1897年(明治30年)2月20日[1] - 1968年(昭和43年)7月23日)は、日本の政治家・教育者。衆議院議員[2]。慶應義塾大学教授。武藤醸造所社長[2]。
武藤嘉一 むとう かいち | |
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1952年 | |
生年月日 | 1897年2月20日 |
出生地 | 岐阜県 |
没年月日 | 1968年7月23日(71歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学部理財科卒業 |
前職 | 旭紡績社長 |
所属政党 |
(無所属→) (日本民主党→) (無所属/同志クラブ→) (無所属/民主クラブ→) (民主自由党→) 自由党 |
子女 | 長男・武藤嘉文(元衆議院議員) |
親族 |
父・武藤嘉門(元衆議院議員、元岐阜県知事) 孫・武藤容治(衆議院議員) |
選挙区 |
(岐阜全県区→) 旧岐阜1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1946年4月10日 - 1952年8月28日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1963年4月1日 - 1968年6月 |
略歴
編集岐阜県出身。武藤嘉門の息子[2]。慶應義塾大学部理財科卒業。慶大卒業後、アメリカに留学。帰国後は慶應義塾大学教授、菊川酒蔵社長、旭紡績社長などを歴任。
1946年(昭和21年)4月、戦後初の総選挙にて初当選。1952年(昭和27年)8月の解散までの約6年衆議院議員を務める(当選3回)。
1963年(昭和38年)4月、各務原市長選に立候補し当選。初代各務原市長となる。しかし、1968年(昭和43年)6月、病気の為辞職する。同年7月、死去。
人物
編集教育者としても知られ、富田高等女学校(現富田高校)校長などの要職を歴任した。また、各務原市長時代は、名古屋商科大学の講師も兼任していた。
武藤自身は「私は政治家に向いていない。学者辺りが向いていると思う」と言っていた。だが、周囲からの要請で政治の世界に入ったという。
家族・親族
編集- 武藤家
岐阜県各務原市
- 1870年 - 1963年
- 妻・さと(岐阜、富田吉三郎の四女)[3]
- 1903年 -
脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
公職 | ||
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先代 新設 |
岐阜県各務原長 1963年 - 1968年 |
次代 松原啓吉 |