橘佐為
奈良時代前期から中期の賜姓皇族・貴族。佐為流の始祖
橘 佐為(たちばな の さい)は、奈良時代前期から中期にかけての賜姓皇族・貴族。初名は佐為王。従四位下・美努王(三野王)の子。官位は正四位下・中宮大夫。 天平年間初頭に風流侍従の一人とされた狭井王[1]と同一人物と想定される。佐為流の始祖。
時代 | 奈良時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 天平9年8月1日(737年8月30日) |
改名 | 佐為王→橘佐為 |
官位 | 正四位下・中宮大夫 |
主君 | 元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 橘宿禰→橘朝臣 |
父母 | 父:美努王、母:県犬養三千代 |
兄弟 |
諸兄、佐為、牟漏女王 異父兄弟:光明皇后、藤原多比能 |
子 |
広足、文成、綿裳、御笠、宮子、 古那可智、真都我、真姪 |
経歴
編集和銅7年(714年)二世王の蔭位により无位から従五位下に叙爵。養老5年(721年)従五位上に叙せられ、まもなく紀男人・山上憶良らと共に、教育係として退朝後に皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられる[2]。
神亀元年(724年)正五位下、神亀4年(727年)従四位下、天平3年(731年)従四位上と順調に昇進した。天平8年(736年)兄・葛城王と共に、母・県犬養三千代が和銅元年(708年)に与えられた橘宿禰姓の賜与を願い許されて臣籍降下し、橘佐為と名乗る。天平9年(737年)2月に正四位下に叙せられるが、おりから流行していた天然痘のため同年8月1日に卒去。最終官位は中宮大夫兼右兵衛率正四位下。
官歴
編集『続日本紀』による。