横山又次郎

日本の地質学者・古生物学者

横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日[1]1860年6月14日) - 昭和17年(1942年1月20日[2])は、日本古生物学者。「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳し[3]、最初に日本で恐竜を紹介した人物でもある。

横山又次郎

経歴

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長崎県出身。オランダ通詞(通訳)横山家の分家、7代又次右衛門の次男として生まれる。幕末維新期の長崎の英語学校で学んだ。

1882年明治15年)、東京大学理学部地質学科を卒業[1]農商務省御用掛となり、1886年(明治19年)からドイツに留学し、古生物学を専攻した[1]1889年(明治22年)に帰国し、東京帝国大学理科大学教授に任命された[1]1891年(明治24年)に理学博士の学位を得た[1]1908年(明治41年)に再び欧米諸国に派遣され、地質学を研究した[4]

新生代の貝についての研究が多く、多くの学名に「ヨコヤマ」の名が入っている。

長崎市は2022年に又次郎の孫にあたる人物から古写真の寄贈を受け、専門家らに依頼し調査を進めていた。長崎市恐竜博物館(ベネックス恐竜博物館)の開館を知り寄贈したと言う事だった[5]。それらの古写真は幕末から明治時代の中期の撮影と推定され[6]、又次郎の私生活や前半生に係るものと判明した。全30枚のうち18枚が上野彦馬の撮影所で撮影されたものだった。また上野彦馬とは親戚だったことも判明した[7]。長崎市は古写真のレプリカを、2024年10月19日からべネックス恐竜博物館で一般公開した[8]

著書

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  • 『地球之過去及未来』(冨山房、1897年)
  • 『地球と彗星との衝突』(金港堂、1898年)
  • 『前世界』(金港堂、1898年)
  • 『生物の過去と未来』(金港堂、1902年)
  • 『古生物学』(冨山房、1907年)
  • 『観天窺地』 (鳳鳴社書店、1914年)
  • 『世界に於ける自然の奇観』(広文堂書店、1915年)
  • 『世界奇聞 知識の庫』(早稲田大学出版部、1918年)
  • 『珍談百一篇』(早稲田大学出版部、1921年)
  • 『自然の面影』(早稲田大学出版部、1926年)

脚注

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  1. ^ a b c d e 人事興信録 1918.
  2. ^ 『20世紀日本人名事典』、日外アソシエーツ、2004年。[要ページ番号]
  3. ^ Vol.6 横山又次郎と明治・大正の恐竜本”. Favorite. フェバリット (2019年12月23日). 2024年7月12日閲覧。
  4. ^ 人事興信録 1925.
  5. ^ 長崎国際テレビニュース (2024年10月16日). ““恐竜” と名付けた長崎の研究者「 横山又次郎」 前半生記録の古写真30枚を公開へ《長崎》 | 長崎国際テレビニュース”. 長崎国際テレビニュース. 2024年10月18日閲覧。
  6. ^ 長崎新聞 (2024年10月17日). “「恐竜」名付け親の写真発見 長崎出身・古生物学者 横山又次郎の前半生 恐竜博物館で展示 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2024年10月18日閲覧。
  7. ^ 学術名を「恐竜」と和訳した「日本の古生物学の父」 貴重な写真の数々を発見【長崎市】”. KTNテレビ長崎. 2024年10月18日閲覧。
  8. ^ NBC長崎放送 (2024年10月16日). “30枚中18枚は上野彦馬撮影所で撮影されたと判明!「恐竜」の名付け親・横山又次郎さんの古写真を長崎市が公開 | NBC長崎放送”. NBC長崎放送. 2024年10月18日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。 

関連項目

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