樅型駆逐艦(もみがたくちくかん)は、大日本帝国海軍の2等駆逐艦、同型艦21隻[1]

樅型駆逐艦
栗
基本情報
種別 二等駆逐艦[1]
命名基準 植物の名
運用者  大日本帝国海軍
同型艦 21隻[1](#同型艦を参照)
前級 楢型駆逐艦
次級 若竹型駆逐艦
要目 (樅、計画)
基準排水量 公表値 770トン[2]
常備排水量 850.00トン[3]
全長 290 ftin (88.39 m)[3]
水線長 280 ft 0 in (85.34 m)[4]
垂線間長 275 ft 0 in (83.82 m)[3]
最大幅 26 ft 0 in (7.92 m)[3] または7.93m[5]
深さ 16 ft 3 in (4.95 m)[3]
吃水 8 ft 0 in (2.44 m)[6]
ボイラー ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基[7]
主機 ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基[5]
各艦の形式は#主機械を参照
推進器 2軸 x 400rpm[7]
直径 8 ft 6 in (2.59 m)[7]、ピッチ3.378m[8]
または直径2.565m、ピッチ3.353m[8]
出力 21,500shp[3]
速力 36ノット[3]
航続距離 3,000カイリ / 14ノット[3]
燃料 重油250トン[3]
蔦以降 同240トン[3]
乗員 計画乗員 107名[9]
竣工時定員 110名[10]
兵装 45口径三年式12cm砲 単装3門[12]
三年式機砲 2挺[12]
53cm連装発射管 2基4門[13]
魚雷8本[13]
搭載艇 20ft内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻[11]
トンは英トン
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計画

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大正6年度(1917年)成立の八四艦隊完成案により計画された中型駆逐艦[14](2等駆逐艦)。この案では18隻が建造され[14]、続く大正7年度(1918年)成立の八六艦隊完成案で2等駆逐艦が16隻計画され[15]、そのうち3隻が本型で残りは若竹型に移行した[16]

本型から1918年から建造が始まり、翌1919年末から1922年にかけて竣工した[17]藤永田造船所石川島造船所が新たに駆逐艦建造に参加している[18]

艦型

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設計は峯風型一等駆逐艦と平行して行われ、わずかに先行していた[19]。峯風型の小型版という形で[20]、船体形状などが峯風型と似ている[19]。兵装は峯風型と比べて主砲が1門、魚雷発射管が1基(2門)少なく、また機関出力が小さくなって[21]計画速力36ノット(峯風型は39ノット)としている[3]

桃型や楢型では凌波性が不十分で、本型は峯風型と同じ艦橋前にウェルデッキを設けた形になった[19]。主砲3門は全て上甲板より1段上にあり、波の高い場合でも使用可能となった[19]。また、二等駆逐艦で初めて53cm魚雷を搭載した[19]

3基のボイラーは全て重油専焼になった[19]。石炭燃焼艦では濃い煤煙によって発見される可能性が高くなり、重油専焼の方が夜戦などで有利だった[22]。タービンは二等駆逐艦で初めてオールギアードタービンを搭載した[19]。計画常備排水量は楢型と同じ850トン(英トン、以下同様)だったが、出力が21,500馬力(楢型は17,500馬力[6])となって計画速力は36ノット(楢型31.5ノット[6])に増大した[19]

基本計画番号は「樅」など8隻がF37、「菊」など5隻がF37A、「蔦」など8隻がF37B[23]

計画排水量は850トンだったが、実際には45トンほど超過していた[24]。(後期の艦ほど改正で排水量が増した、とする文献もある[18]。)排水量の増加は速力に影響があり[24]、例えば1920年(大正9年)3月、佐多岬沖で実施された楡の公試成績では排水量893トン、軸馬力23,165shpにおいて速力34.35ノットを記録している[25]。また、舵を切ったときに傾斜が大きく、復元力を増す必要もあった[26]。次型の若竹型(基本計画番号F37C[27])では排水量を900トンにするなど、これらの点が計画から盛り込まれることになった[28]

主機械

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タービン形式については、最初の8隻のうち「樅」を初めとする4隻はブラウン・カーチス式を搭載、「楡」を初めとする4隻はジョン・ブラウンとパーソンズの設計の両方を参考に、三菱が新たに設計した高圧衝動式、低圧反動式のタービンを搭載した[29]。この背景には、日本海軍はタービン開発に熱意を持っていたが、ブラウン・カーチス式の製造権を持っていた川崎造船所は自力開発には消極的だった[29]。そこで日本海軍は三菱にその図面を渡し、新設計のタービンが作られた[29]。ブラウン・カーチス式が無事故で好成績を収めたのに対し三菱設計のタービンは故障が多く、結局、続く「菊」を初めとする7隻にはブラウン・カーチス式が搭載された[29]。また、その後に続く本型最後の6隻にはヨーロッパのタービン・メーカー各社のものを搭載し、実艦での比較実験を行った[30]浦賀船渠製造の2隻にはキャメル・レアード社のパーソンズ式反動タービンを、藤永田造船所製造の2隻にはジョン・ブラウン社のブラウン・カーチス式を、石川島造船所製造の2隻にはエッシャーウィス社のツエリー(チェリー)式をそれぞれ搭載した[30]。キャメル・レアード社(会社のあるイギリスは第一次世界大戦の最中だった)製のタービンは外観の仕上げは粗雑ながら内部の重要部品は精巧に作られてあり、実艦搭載の運転では良い成績を収めた[30]。一方エッシャーウィス社は初めての船舶用タービンであって事故が続出する一方、その対策を行うことで日本のタービン技術向上にもなった[30]

結局各艦に搭載されたタービンの形式と製造会社は以下の様になった[31]

  • ブラウン・カーチス式
    • 川崎造船所製 - 樅、榧、梨、竹、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦
    • ジョン・ブラウン社製 - 蕨
    • ジョン・ブラウン社計画、川崎造船所製 - 蓼
  • (三菱パーソンズ式[5])高圧インパルス・低圧リアクション式一段減速(三菱製)- 柿、楡、栗、栂
  • パーソンズ式反動(キャメル・レアード社製) - 菱、蓮
  • ツエリー式

運用

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本型は合計21隻と多数が建造され、竣工後は第一艦隊(戦艦部隊)の直衛任務に長期間就いた[20]

太平洋戦争開戦時、多くは哨戒艇に転籍し、あるいは雑役船となって練習任務に就いていたが、駆逐艦籍に残っている艦もあった。哨戒艇、駆逐艦籍にある艦は船団護衛任務に活躍している。

同型艦

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解説は起工、進水、竣工日 - その後(カッコ内は沈没場所)。斜体は、太平洋戦争開戦時に駆逐艦籍にあった艦。

樅(もみ)

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1918年(大正7年)12月23日横須賀海軍工廠で起工[32]1919年(大正8年)6月10日午後3時15分進水[33]、1919年12月27日竣工[34] - 1932年4月1日除籍。1936年訓練射撃用標的。

榧(かや)

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1918年12月23日横須賀海軍工廠で起工[32]、1919年6月10日午後3時34分進水[33]1920年(大正9年)3月28日竣工[35] - 1940年2月1日除籍。

楡(にれ)

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1919年9月5日呉海軍工廠で起工[36]、1919年12月22日午前10時進水[37]、1920年3月31日竣工[38] - 1940年2月1日除籍。1940年10月15日、航海学校付属の練習船。1944年12月17日、楡 (橘型駆逐艦)との区別のため、第一泊浦(だいいちとまりうら)に改称。1945年7月11日、横須賀海兵団(横須賀突撃隊供用)所属の特攻母艦。戦後解体。

(くり)

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1919年12月5日呉海軍工廠で起工[39]、1920年3月19日午前9時39分進水[40]、1920年4月30日竣工[41] - 掃海作業中の1945年10月8日釜山港で触雷沈没。1945年10月25日除籍。

梨(なし)

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1918年12月2日川崎造船所で起工[42]、1919年8月26日午前7時進水[43]、12月10日竣工[44] - 1940年2月1日除籍。

竹(たけ)

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1918年12月2日川崎造船所で起工[45]、1919年8月26日午前7時30分進水[43]、1919年12月25日竣工[46][注釈 1] - 1940年2月1日除籍。除籍後は舞鶴海兵団の練習船。1944年2月10日、機関学校附属の練習船。1948年解体、船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年、港の外港展開とともに取り除かれた。

柹(かき)[47]

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1919年2月27日浦賀船渠で起工[2]、1919年10月20日午後2時30分進水[48]、1920年8月2日竣工[49] - 1940年2月1日除籍。1940年10月15日、兵学校付属の練習船。1945年2月23日、柿 (橘型駆逐艦)との区別のため、大須(おおす)に改称。終戦直後の台風で座礁、解体。

(つが)

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1919年3月5日石川島造船所で起工[2]、1920年4月17日午後4時進水[50]、7月20日竣工[51] - 1945年1月15日、高雄にて航空機の攻撃により戦没。

菊(きく)

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1920年1月20日川崎造船所で起工[52]、1920年10月13日午前7時進水[53]、1920年12月10日竣工[52] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第31号哨戒艇に改称。1944年3月30日、航空機の攻撃により戦没(パラオ西水道)。

葵(あおい)

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1920年4月1日川崎造船所で起工[52]、1920年11月9日午前7時進水[54]、1920年12月20日竣工[52] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第32号哨戒艇に改称。1941年12月22日、ウェーキ島上陸作戦で擱座、放棄。

萩(はぎ)

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1920年2月28日浦賀船渠で起工[55]、1920年10月29日午後4時30分進水[56]、1921年4月20日竣工[57] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第33号哨戒艇に改称。1941年12月22日、ウェーキ島上陸作戦で擱座、放棄。1942年1月10日除籍。

薄(すすき)

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1920年5月3日東京石川島造船所で起工[58]、1921年2月21日午後3時30分進水[59]、1921年5月25日竣工[52] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第34号哨戒艇に改称。1944年7月3日、トラック在泊中、空爆を受けて沈没[注釈 2]

藤(ふじ)

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1919年12月6日藤永田造船所で起工[60]、1920年11月27日午前8時30分進水[61]、1921年5月31日竣工[62] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第36号哨戒艇に改称。スラバヤで終戦。復員輸送中にインドネシア軍に奪取されたが後にオランダ軍が接収。

蔦(つた)

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1940年、呉で撮影された第35号哨戒艇(旧「蔦」)[63]
1920年10月16日川崎造船所で起工[52]、1921年5月9日午前7時30分進水[64]、1921年6月30日竣工[52] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第35号哨戒艇に改称。1942年9月2日、航空機の攻撃により戦没(ビコリア島北東)。

葦(あし)

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1929年から翌年の「葦」[65]
1920年11月15日川崎造船所で起工[52]、1921年9月3日午前7時30分進水[66]、1921年10月29日竣工[67] - 1940年2月1日除籍。1927年の美保関事件において、軽巡洋艦那珂と衝突事故を起こしている。1940年10月15日、航海学校付属の練習船。1944年12月17日、葦 (橘型駆逐艦)との区別のため、第二泊浦(だいにとまりうら)に改称。1945年7月11日、横須賀海兵団(横須賀突撃隊供用)所属の特攻母艦となるが、後に東京湾第二海上堡塁に擱座。

菱(ひし)

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1920年11月10日浦賀船渠で起工[52]、1921年5月30日午前10時30分進水[68]、1922年3月23日竣工[69] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第37号哨戒艇に改称。1942年1月23日、米駆逐艦4隻と交戦沈没(バリックパパン)。1942年4月10日除籍。

(はす)

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1921年3月2日浦賀船渠で起工[70]、1921年12月8日午前11時進水[71]、1922年7月31日竣工[72] - 青島で終戦。戦後解体。船体は福井県四箇浦港の防波堤に利用された、とされるが異説有[要出典]。詳細は同艦個別項目にて。

菫(すみれ)

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1920年11月24日石川島造船所で起工[52]、1921年12月14日午後3時30分進水[73]、1923年3月31日竣工[52] - 1940年2月1日除籍。1940年11月15日、兵学校付属の練習船。1945年2月23日、菫 (橘型駆逐艦)との区別のため、三高(みたか)に改称。戦後解体。

蓬(よもぎ)

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1921年2月26日石川島造船所で起工[52]、1922年3月14日進水[74][注釈 3]1922年8月19日竣工[75] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第38号哨戒艇に改称。1944年11月25日、米潜アトゥルの雷撃により戦没(バシー海峡)。

蕨(わらび)

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1920年10月12日藤永田造船所で起工[76]、1921年9月28日午後5時30分進水[77]、1921年12月19日竣工[78] - 1927年8月24日、神通と衝突沈没(島根県美保ヶ関沖、美保関事件)。

蓼(たで)

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シーウルフから撮影された第39号哨戒艇(旧「蓼」)の最期(1943年4月23日)[79]
1920年12月20日藤永田造船所で起工[52]、1922年3月15日午前8時30分進水[80]、1922年7月31日竣工[81] - 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第39号哨戒艇に改称。1943年4月23日、米潜「シーウルフ」の雷撃により戦没(与那国島南方)。

駆逐隊の変遷

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樅型駆逐艦は姉妹艦21隻からなるが、そのうち16隻はそれぞれ4隻ずつ駆逐隊を組んだ。菊・葵は江風型駆逐艦2隻からなる第十四駆逐隊に編入され、異例の2等級2種の混成駆逐隊となった。後期ロットの3隻は若竹型の若竹と共に駆逐隊を編成した。

第二十五駆逐隊

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佐世保鎮守府籍ので編成。神風型駆逐艦春雨型駆逐艦からなる先代が大正8年4月1日に第二十九駆逐隊にスライドして以来の二代目の第二十五駆逐隊である。樅は主機の不調により昭和7年4月1日に除籍され、隊自体も昭和12年10月1日に解隊された。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。

1920年(大正9年)12月1日:編成。第一艦隊第一水雷戦隊
1923年(大正12年)12月1日:佐世保鎮守府予備艦。
1926年(大正15年)12月10日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1927年(昭和2年)12月1日:佐世保鎮守府予備艦。
1932年(昭和7年)4月1日:樅除籍。
1937年(昭和12年)10月1日:解隊。榧、梨、竹は佐世保鎮守府予備艦となる。
(1940年(昭和15年)2月1日:榧、梨、竹除籍。)

第二十六駆逐隊

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佐世保鎮守府籍ので編成。白雲型駆逐艦からなる先代が大正7年12月10日に解隊されて以来の二代目の第二十六駆逐隊である。昭和9年11月15日に栗、栂は駆逐隊から離脱して第十一戦隊に編入。その2年後の昭和11年12月1日には隊自体も解隊され、楡、柹は第十一戦隊に編入された。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。

1920年(大正9年)4月30日:楡、栗で編成。
1920年(大正9年)7月20日:竣工した栂を編入。
1920年(大正9年)8月2日:竣工した柹を編入。
1919年(大正8年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1923年(大正12年)12月1日:佐世保鎮守府予備艦。
1925年(大正14年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1928年(昭和3年)12月10日:馬公要港部予備艦。
1930年(昭和5年)12月15日:佐世保鎮守府予備艦。
1933年(昭和8年)11月15日:第三艦隊第十一戦隊。
1934年(昭和9年)11月15日:栗、栂、駆逐隊から離脱し第十一戦隊に編入。
1936年(昭和11年)12月1日:解隊。楡、柹は第十一戦隊に編入。
(1937年(昭和12年)12月1日:楡、柹、佐世保鎮守府予備艦となる。)
(1940年(昭和15年)2月1日:楡、柹除籍。)
(1937年(昭和12年)12月1日:栗、栂、第三艦隊ごと支那方面艦隊に編入。)
(1939年(昭和14年)11月15日:栗、栂、第十三戦隊に編入。)
(1940年(昭和15年)11月15日:栗、栂、上海方面特別根拠地隊に編入。)
(1945年(昭和20年)1月15日:栂戦没。3月10日除籍)
(1945年(昭和20年)10月8日:栗沈没。10月25日除籍)

第十五駆逐隊

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呉鎮守府籍ので編成。桃型駆逐艦からなる先代が大正7年4月1日に第二十四駆逐隊にスライドして以来の四代目の第十五駆逐隊である。大正15年3月12日には大沽口事件で藤が軽微ながら損傷を受けている。昭和10年11月15日に萩が第十四駆逐隊に転出。薄・藤・蔦の哨戒艇改造のため昭和14年2月20日に解隊された。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。

1921年(大正10年)6月1日:萩、薄、藤で編成。第一艦隊第一水雷戦隊。
1921年(大正10年)6月30日:竣工した蔦を編入。
1922年(大正11年)12月1日:呉鎮守府予備艦。
1923年(大正12年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1926年(大正15年)3月12日:大沽口事件で藤損傷。
1926年(大正15年)12月10日:呉鎮守府予備艦。
1927年(昭和2年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1930年(昭和5年)12月1日:呉鎮守府予備艦。
1935年(昭和10年)11月15日:萩が第十四駆逐隊に転出。
1937年(昭和12年)12月1日:支那方面艦隊第四艦隊
1939年(昭和14年)2月20日:解隊。薄、藤、蔦は哨戒艇改造に着手。

第二十七駆逐隊→第三十四駆逐隊

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佐世保鎮守府籍ので編成。春雨型駆逐艦、白雲型駆逐艦からなる先代が大正9年1月に呉鎮守府第十一駆逐隊に改称されて以来の二代目の第二十七駆逐隊である。昭和2年8月24日には美保関事件により蕨が沈没し、葦が大破する損害を受けている。昭和13年12月15日には舞鶴要港部に転出し、第三十四駆逐隊に改称された。菱・蓬・蓼の哨戒艇改造のため昭和14年11月15日に解隊された。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。

1922年(大正11年)1月5日:葦、蕨で編成。
1922年(大正11年)3月23日:竣工した菱を編入。
1922年(大正11年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1923年(大正12年)3月31日:竣工した菫を編入。
1923年(大正12年)12月1日:佐世保鎮守府予備艦。
1925年(大正14年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1927年(昭和2年)8月24日:蕨、事故沈没。葦、事故により大破(美保関事件)。9月15日、蕨除籍。
1927年(昭和2年)8月26日:葦、修理のため駆逐隊より離脱。佐世保鎮守府予備艦。
1928年(昭和3年)3月:葦、修理完了し復帰。
1928年(昭和3年)12月10日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1930年(昭和5年)12月1日:佐世保鎮守府予備艦。
1935年(昭和10年)11月15日:解隊された第二十八駆逐隊よりを編入。
1938年(昭和13年)12月15日:舞鶴要港部に転籍。第三十四駆逐隊に改称。舞鶴要港部予備艦。
1939年(昭和14年)11月15日:解隊。菱、蓬、蓼は哨戒艇改造に着手。菫、葦は舞鶴鎮守府予備艦となる。
(1940年(昭和15年)2月1日:菫、葦除籍。)

第二十八駆逐隊

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佐世保鎮守府籍のと若竹型の若竹で編成。昭和10年11月15日に解隊された。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。

1922年(大正11年)8月7日:蓮、蓼で編成。
1922年(大正11年)8月19日:竣工した蓬を編入。
1922年(大正11年)9月30日:竣工した第二駆逐艦(若竹)を編入。
1922年(大正11年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1923年(大正12年)4月1日:第二駆逐艦(若竹)は呉鎮守府第十三駆逐隊に転出。
1923年(大正12年)12月1日:佐世保鎮守府予備艦。
1925年(大正14年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
1927年(昭和2年)3月26日:第一遣外艦隊
1927年(昭和2年)5月12日:佐世保鎮守府予備艦。
1928年(昭和3年)4月17日:第二遣外艦隊
1928年(昭和3年)12月10日:舞鶴要港部部隊。
1929年(昭和4年)3月26日:第一遣外艦隊。
1930年(昭和5年)12月1日:鎮海要港部部隊。
1934年(昭和9年)11月15日:第三艦隊第五水雷戦隊
1935年(昭和10年)11月15日:解隊。蓬、蓼は第二十七駆逐隊に、蓮は第十一戦隊にそれぞれ編入。
(1937年(昭和12年)12月1日:蓮、第三艦隊ごと支那方面艦隊に編入。)
(1939年(昭和14年)11月15日:蓮、第十三戦隊に編入。)
(1940年(昭和15年)11月15日:蓮、上海方面特別根拠地隊に編入。)
(1945年(昭和20年)10月25日:蓮除籍。)

脚注

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注釈

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  1. ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日附内令第34号、艦船要目公表範囲では大正9年(1920年)12月25日竣工となっている。
  2. ^ チューク州観光局発行のDive-Mapより。
  3. ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1074-1075(昭和3年艦船要目公表範囲)では大正10年3月14日進水となっているが、転記ミスと思われる。

出典

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  1. ^ a b c #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92『大正十五年十一月二十九日(内令二三八) 艦艇類別等級別表ノ通定ム(別表省略)』| 驅逐艦 | 二等 | 樅型 | 樅、榧、楡、栗、梨、竹、柿、栂、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦、菱、蓮、菫、蓬、蕨、蓼 |
  2. ^ a b c #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日(内令43)、艦船要目公表範囲。
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  32. ^ a b #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(1)画像22『大正七年十二月二十三日 横須賀海軍工廠長山中柴吉 海軍大臣加藤友三郎殿 驅逐艦二隻起工ノ件 驅逐艦樅及榧本日午前十時龍骨据付ヲ了ス(終)』
  33. ^ a b #T8公文備考20艦船3/進水画像3『大正八年六月十日(中略)驅逐艦樅本日午後三時十五分、榧同三時三十四分無事進水セリ(了)』、#T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(1)画像34も同一内容。
  34. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像9『大正八年十二月二十七日 横須賀工廠長 艦政局長 樅竣成ニ付本日仝艦長ヘ引渡ヲ了セリ(了)』
  35. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像9『大正九年三月二十八日 横須賀工廠長 艦政局長 榧竣成ニ付本日仝艦長ヘ引渡ヲ了セリ(了)』
  36. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像7『大正八年九月八日 呉鎮守府司令長官代理 海軍中将小栗考三郎 海軍大臣加藤友三郎殿 驅逐艦楡起工ノ件 驅逐艦楡九月五日起工致候艦船造修試験検査規則第六條ニ依リ右報告ス(終)』
  37. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(1)画像21『大正八年十二月二十二日(中略)驅逐艦楡本日午前十時無事進水セリ』
  38. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像34、大正9年3月31日電報訳『三月丗一日 呉鎮守府司令長官 楡竣工本日授受結了(了)』
  39. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像7『大正八年十二月六日 呉海軍工廠長中野直枝 海軍大臣加藤友三郎殿 新造驅逐艦起工ノ件 驅逐艦栗十二月五日起工致候艦船造修試験検査規則第六條ニ依リ右報告ス「終」』
  40. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像28『大正九年三月十九日(中略)栗午前九時三十九分無事進水セリ』
  41. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像35『大正九年四月三十日(中略)驅逐艦栗今三十日授受結了(了)』
  42. ^ #T8公文備考18艦船1/駆逐艦竹梨製造一件画像5『大正七年十二月二日 神戸市東川崎町貮丁目拾四番地 株式會社川崎造舩所 専務取締役社長松方幸次郎 海軍省艦政局長 岡田啓介殿 驅逐艦梨起工御届ノ件 御下命ヲ蒙リ弊社ニ於テ建造ノ驅逐艦梨本日午前九時起工致候ニ付此段御届申上候也』
  43. ^ a b #T8公文備考18艦船1/駆逐艦竹梨製造一件画像9『大正八年八月二十六日(中略)驅逐艦本日午前七時梨、竹同七時三十分無事進水セリ(了)』。#T8公文備考20艦船3/進水画像8『大正八年八月二十六日(中略)梨、竹無事進水セリ右報告ス』
  44. ^ #T8公文備考18艦船1/駆逐艦竹梨製造一件画像11『大正八年十二月十日(中略)發信者 梨駆逐艦長 受信者 大臣 電報譯 本艦無事受領ヲ了ス』。#T8公文備考20艦船3/授受、引渡画像38『大正八年十二月十日(中略)驅逐艦梨今日午前十時津田艦長ヘ無事御引渡致シマシタ』
  45. ^ #T8公文備考18艦船1/駆逐艦竹梨製造一件画像6『大正七年十二月二日 神戸市東川崎町貮丁目拾四番地 株式會社川崎造舩所 専務取締役社長松方幸次郎 海軍省艦政局長 岡田啓介殿 驅逐艦竹起工御届ノ件 御下命ヲ蒙リ弊社ニ於テ建造ノ驅逐艦竹本日午前九時三十分起工致候ニ付此段御届申上候也』
  46. ^ #T8公文備考18艦船1/駆逐艦竹梨製造一件画像2『大正八年十二月二十五日(中略)發信者 竹駆逐艦長 受信者 大臣 電報譯 午前九時三十分本艦ヲ受領セリ』
  47. ^ 大正7年1月24日付 海軍大臣達 第7号(アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070073200 で閲覧可能)による命名時の艦名表記は柿ではなく柹であり、その後艦名変更の達号は存在しない。また、船名を大須に変更する際に出された昭和20年2月23日付 海軍大臣官房 官房軍第95号(アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070504000 で閲覧可能)での旧船名欄ものままである。
  48. ^ #T8公文備考20艦船3/進水画像15『大正八年十月二十日(中略)柹本日午後二時三十分無事進水セリ(了)』
  49. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦栂、柿製造一件画像14『大正九年八月二日 金丸監督官 艦政局長 柿八月二日引渡ヲ了ス(了)』
  50. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦栂、柿製造一件画像6『大正九年四月十七日(中略)驅逐艦栂本日午後四時無事進水セリ(了)』
  51. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦栂、柿製造一件画像8『大正九年七月二十?日(中略)二等驅逐艦栂今二十日引渡ヲ了シ候間此段御届申上候 敬具』
  52. ^ a b c d e f g h i j k l m #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1074-1075、昭和3年2月14日附内令第34号、艦船要目公表範囲。
  53. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像39『大正九年十月十三日(中略)驅逐艦菊本日午前七時無事進水セリ』
  54. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像45『大正九年十一月九日(中略)驅逐艦葵本日午前七時進水セリ』
  55. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像19-22、大正9年10月20日浦賀船渠提出の工事予定概括表
  56. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像41『大正九年十月二十九日(中略)浦賀船渠株式會社ニテ建造中ノ驅逐艦萩本日午後四時三十分無事進水セリ』
  57. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像29『大正十年四月二十日(中略)萩艤装員長 海軍大臣 本日午後二時受領軍艦旗ヲ掲揚ス』
  58. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(1)画像3『大正九年五月三日 株式會社東京石川島造船所 取締役支配人内田徳郎 海軍大臣加藤友三郎殿 貳等驅逐艦薄起工修了御届ノ件 貳等驅逐艦薄今三日午前拾壱時起工ヲ了シ候間此段御届申上候 敬具(終)』
  59. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像33『大正十年二月二十一日(中略)二等驅逐艦薄今二十一日午后三時三十分無事進水執行ヲ了シ候間此段御届申上候 敬具 (終)』
  60. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(1)画像2、大正8年12月6日付け電報『本日十一時駆逐艦藤龍骨据付起工式挙行セリ 藤永田造船所』
  61. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像42『大正九年十一月二十七日(中略)藤十一月二十七日午前八時半無事進水セリ。(了)』
  62. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦菊、葵、萩、薄、藤製造一件(2)画像35『大正十年五月三十一日 藤永田造船所主 永田三十郎 海軍大臣男爵加藤友三郎殿 驅逐艦藤竣功引渡之件 謹啓豫而御下命相受ケ建造中ノ驅逐艦藤引渡ヲ本日午前九時無事終了致候間此段御届申上候也 敬具』
  63. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.847、No.2660の写真解説
  64. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)画像14『大正十年五月九日(中略)驅逐艦蔦今朝七時三十分無事進水致シマシタ』
  65. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.543、No.1426の写真解説
  66. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)画像13『大正十年九月三日(中略)驅逐艦葦今朝七時三十分無事進水致シマシタ』
  67. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)画像20『大正十年十月二十九日(中略)驅逐艦葦今日午前十一時無事御引渡致シマシタ』
  68. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦菱製造一件画像12『大正十年五月三十日(中略)駆逐艦菱本日(五月三十日)十時半無事進水セリ 御届ス (了)』
  69. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦菱製造一件画像38『大正十一年三月二十三日(中略)菱本日(三月二十三日)引渡ヲ了ス(終)』
  70. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦蓮製造一件画像15『大正十年三月二日(中略)發信者 浦賀船渠會社 受信者 艦政本部長 電報譯 驅逐艦蓮本日(三月二日)起工ス (了)』
  71. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦蓮製造一件画像15『大正十年十二月八日(中略)驅逐艦蓮本日午前十一時無事進水セリ』
  72. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦蓼製造一件画像46『大正十一年七月三十一日(中略)本日驅逐艦蓮領収ス』
  73. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦董蓬製造一件(1)画像9、大正10年12月14日付電報『菫本日午后三時三十分無事進水セリ 横鎮長官』
  74. ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1100-1101、昭和6年4月29日附内令第79号、艦船要目公表範囲。
  75. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦董蓬製造一件(1)画像38『大正十一年八月十九日 石川島蓬艤装員長代理ヨリ電話 駆逐艦蓬本日午前九時半品川沖ニテ授受ヲ了シ横須賀ヘ回航セリ』
  76. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像2『大正九年十月十二日(中略)發信者 藤永田造船所 受信者 大臣 電報譯 本日十一時驅逐艦蕨龍骨据付起工式挙行セリ』
  77. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像31『大正十年九 二十八日(中略)本日午後五時半駆逐艦(蕨)無事進水セリ』
  78. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像32『大正十年十二月十九日(中略)蕨本日午前十時受領ス』
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  80. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦蓼製造一件画像30『大正十一年三月十五日(中略)驅逐艦蓼本日午前八時三十分無事進水セリ』
  81. ^ #T11公文備考33艦船1/駆逐艦蓼製造一件画像43『大正十一年七月三十一日(中略)驅逐艦蓼本日受領ヲ了ス』

参考文献

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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
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  • 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2 
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』(海人社、1996年) ISBN 4-905551-55-2
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真集』ベストセラーズ、1970年1月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年。
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  • 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。 
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