梶原拓
梶原 拓(かじわら ひろむ、1933年11月14日 - 2017年8月29日)は、日本の政治家。建設省官僚。前岐阜県知事、元全国知事会会長。氏名の読みは一般には「かじわら たく」として知られる。
梶原 拓 かじわら ひろむ | |
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生年月日 | 1933年11月14日 |
出生地 | 日本 岐阜県岐阜市本郷町 |
没年月日 | 2017年8月29日(83歳没) |
死没地 | 日本 岐阜県岐阜市[1] |
出身校 | 京都大学法学部 |
前職 |
国家公務員(建設省) 岐阜県副知事 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 旭日大綬章 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1989年2月6日 - 2005年2月5日 |
岐阜県岐阜市出身。岐阜県立岐阜高等学校、京都大学法学部卒業。
概要
編集県立岐阜高校、京都大学法学部を卒業後、旧建設省に入省し、都市局局長等を歴任。鳥取県の西尾邑次の部下だったこともある。
1985年に当時の岐阜県知事上松陽助の下、岐阜県副知事に就任[2]。その後、上松の引退を受け1989年(平成元年)に夢おこし県政を掲げ岐阜県知事に初当選。以降4期16年岐阜県の知事を務め、全国知事会長も歴任した。
県内の産業振興にも積極的に取り組み、当時はほとんど知られていなかったCOSMOS (COsmic Scale Multimedia Of Six-faces) と称する当時世界に2台しか存在しなかった6面スクリーンの最先端の仮想現実環境の研究拠点を含む研究施設を県内に整備して振興に努めた[3]。1997年、国から東京都に配分される道路財源について、「整備が進んでいる東京は道路特定財源を飲んだり食ったりしていいが、我々はそうはいかない」と発言。さらに、「日本の政治は一部の東京の有識者と称する人に振り回されている。彼らは東京というタコツボに住んでいて地方のことを全然知らない、東京タコツボに住んでおる東京タコ」と東京中心主義を痛烈に批判し、地方からの共感を呼んだ。一方、徳山ダムの建設や積極的な公共施設(ソフトピアジャパンなど)の整備政策は、「ハコモノ行政」の批判を浴び県財政を悪化させる要因ともなった。
退任後は日本再生研究会(再生日本)代表を務めたが、2006年に発覚する在任当時の不適切な公金処理問題(後述する岐阜県庁裏金問題)が影響したこともあり、表立っての活動・発言はなかった。
2006年4月に旭日大綬章を受章。
不祥事
編集裏金問題
編集2006年7月に発覚した裏金問題により、渦中の人物となった。詳細は岐阜県庁裏金問題を参照。
個人秘書・諸経費・公費負担問題
編集2006年(平成18年)10月2日、市民団体の岐阜県民ネットワーク によって「梶原元岐阜県知事の個人秘書・諸経費・公費負担問題」を指摘され住民監査請求が行われたが[6]、「補助金を支出した事業団に関する関連書類の整備(書類が見当たらなかった)、補助金を支出する公益事業内容の透明性をはかるよう(どんな公益事業であるか、県民に対して充分な説明がなされていない)」と付警したうえで、以下の理由によって棄却されている[7]。
- 「監査請求された日付けが支出より1年以上経過してしまったこと」
- 「事業団に対する県補助金は公益上必要がある」
略歴
編集文献
編集著書
編集- 『都市情報学』ぎょうせい、1985年4月
- 『道路情報学』ぎょうせい、1985年1月
- 『THE地域活性化大学』実業之日本社、1989年7月
- 『長良の川風 - 21世紀の前触れを探る』ぎょうせい、2000年
共著
編集編書
編集脚注
編集- ^ 梶原拓・前岐阜知事が死去 4期16年、元祖改革派 - 中日新聞プラス 2017年8月30日
- ^ “梶原拓さん死去:「闘う知事」指導力発揮 退任後、裏金問題も”. 毎日新聞 (2017年8月31日). 2019年12月26日閲覧。
- ^ HMDがダメだといわれた時代 - CABIN誕生
- ^ 元岐阜県知事、梶原拓さん死去…「闘う知事会」 - YOMIURI ONLINE 2017年8月30日
- ^ 岐阜新聞朝刊 2017年9月27日紙面より
- ^ 市民団体 岐阜県民ネット内・梶原拓前岐阜県知事の個人秘書・諸経費・公費負担問題のページ
- ^ 岐阜県 監査結果
関連項目
編集外部リンク
編集公職 | ||
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先代 上松陽助 |
岐阜県知事 公選第12 - 15代:1989年 - 2005年 |
次代 古田肇 |