柳原資綱
柳原 資綱(やなぎわら すけつな)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。柳原行光の子。官位は従一位・権大納言。柳原家5代当主。
時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 応永26年(1419年) |
死没 | 文亀元年閏6月27日(1501年8月10日) |
改名 | 資重(初名)→資綱 |
官位 | 従一位、権大納言 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇→後土御門天皇 |
氏族 | 藤原北家日野流柳原家 |
父母 | 父:柳原行光、母:日野西資国の娘 |
子 | 量光、光秀ら |
経歴
編集文安6年(1449年)3月28日、参議に任じられる。応仁の乱頃より柳原家の家計は、諸国の知行地が押領され、困窮するようになった。そのため、主要な経済基盤のあった因幡国法美郡の知行地に自身らが下向、子・量光と共に所領の経営を直接行った。
文明6年(1478年)頃からはほぼ毎年、因幡在国と上洛を繰り返すようになった。自らの在国中は子・量光を上洛させ、量光の在国中は自らが上洛し、宮中に奉仕する形を採り、所領の経営を行った。因幡在国時は法美郡百谷[1]の地に屋敷を構えていたという。文明14年(1482年)、従一位・権大納言に任じられた。
逸話
編集所領経営で因幡に在国する傍ら、上洛時には柳原家の体面を保つため、月次和漢会等に出席し、社交面でも活発に動いていた。ただ、和漢はあまり上手ではなかったようで甘露寺親長からは「和漢ども堪能にあらざるか」と評されている。(『親長卿記』)明応元年の改元の際には「近江知行分が復活したならば、すぐさま上洛して父子共々朝政に奉仕する」と述べ、近江国の所領の復活を要請していたが、不可能と回答されたために新元号の勘者に選ばれていた子・量光の上洛を拒否し、引き続き因幡に在国した。文亀元年(1501年)閏6月27日、丹州に滞在中に病気が原因で薨去。享年は83と高齢であった。三条西実隆からは「朝の大老なり」と評されている。
系譜
編集- 父:柳原行光
- 母:日野西資国の娘
- 妻:不詳
- 男子:柳原量光
- 男子:柳原光秀
脚注
編集出典
編集- 『新修鳥取市史 第一巻 古代・中世篇』(鳥取市、1983年)
関連項目
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