松竹新喜劇(しょうちくしんきげき)は、松竹傘下の喜劇劇団。同じ上方を本拠地とする吉本新喜劇コント主体の軽演劇と異なり、ときに涙を誘う物語性のある人情喜劇を売りにしている。

概要

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1948年12月、結成当時の松竹新喜劇のメンバー 前列左から4人目二代目渋谷天外、5人目曾我廼家十吾、6人目浪花千栄子、7人目曽我廼家鶴蝶 中列左から4人目(天外の後ろ)曾我廼家五郎八 後列左から5人目藤山寛美、後列右から4人目曽我廼家明蝶

旗揚げは1948年12月中座で行った。参加メンバーは渋谷天外(2代目)曾我廼家十吾浪花千栄子藤山寛美曾我廼家大磯曾我廼家明蝶曾我廼家五郎八など男性17人、女性5人[1]。 その結成のきっかけは、1946年曾我廼家五郎が他界したことであった。

終戦直後の大阪の喜劇界は、天外と十吾によって1928年に結成された「松竹家庭劇」と「曾我廼家五郎一座」に大きく二分されていた。さらに、松竹家庭劇を戦後まもなく脱退し、1947年に「すいーとほーむ」という新劇団を結成、翌年からは「新家庭」と改称して地方を回っていた天外、浪花千栄子、寛美らの劇団もあった。

松竹はかねてより喜劇団の再編成をもくろんでいだが、五郎の死を契機に、十吾らの「松竹家庭劇」に「新家庭」を加え、「五郎一座」の残党を合流させて結成したのがこの「松竹新喜劇」であった。

以後、1949年に大磯らの五郎劇系の女形が退団したので、結果として女形から女優へという一つの近代化を遂げた。さらに1951年には、天外の女性問題から浪花が天外と離婚、松竹新喜劇を退団するという事件があったものの、酒井光子ら若手女優の成長という副産物を生んだ。

1956年には天外の路線に反対して十吾が退団し、危機を迎えたが、やがて藤山寛美がテレビを介して広い人気を得、天外・寛美のコンビで不動の人気を得るにいたった。1965年に天外が病に倒れてからは寛美が劇団の一枚看板となり、圧倒的な人気を得た。

しかし、1965年、多額の借金を抱えて破産した寛美をクビにして、当時の人気漫才コンビ「ミヤコ蝶々南都雄二」を迎えたが、客足が落ちてしまい、1967年に寛美の借金を肩代わりして復帰させた。それ以来、寛美は約20年間連続で舞台に立ち続け、松竹新喜劇を支え続ける。

1987年には、244ヶ月連続無休公演という記録を打ち立てた。これは本拠の大阪・中座をはじめ、京都の南座、名古屋の御園座、東京の新橋演舞場での公演に地方巡業を含めたもの。1ヶ月のうち25日間、昼3本、夜3本もの公演をこなした(残りの5日は稽古日にあてられた)。だが、この強行日程には、劇団員から「寛美の独断専行」といった批判の声が上がり、劇団運営や待遇への不満もあって多くの離反者を招くことになる。中でも、寛美の後継と目されていた小島秀哉の退団(1977年)は大きな痛手で、彼に代わる後継者が育つことなく「松竹新喜劇=藤山寛美」のまま、劇団は低空飛行を続けることになる。

その寛美が1990年に死去し、松竹新喜劇は最大のピンチを迎えるが、1991年、前年に復帰[2]した渋谷天笑(初代;後の3代目渋谷天外)を代表に「新生松竹新喜劇」と改称。

現在では、寛美の娘の藤山直美2代目水谷八重子京唄子久本雅美などの著名俳優を客演に迎えての全国公演も行っている。

その後「新生」を取っ払い、「松竹新喜劇」の名に戻り活動。2009年8月には、長らくライバルだった吉本新喜劇なんばグランド花月の舞台で揃って挨拶した。

現在の主要メンバー

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旧座員

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ほか

関連項目

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脚注

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  1. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、28頁。ISBN 9784309225043 
  2. ^ 初代天笑は1984年に休団、俳優としてテレビドラマに出演していた。

外部リンク

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