松平景忠
松平 景忠(まつだいら かげただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。五井松平家5代当主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文10年(1541年) |
死没 | 文禄2年6月3日(1593年7月1日) |
別名 | 弥九郎[1]、太郎左衛門[1] |
戒名 | 源清[1] |
墓所 | 愛知県蒲郡市五井の長泉寺[1] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 五井松平家 |
父母 | 父:松平忠次 |
兄弟 | 景忠、正幸 |
妻 | 酒井将監の養女[1] |
子 | 伊昌 |
生涯
編集4代・松平忠次の子として誕生[1]。天文16年(1547年)に父が戦死した際に、景忠は幼少であったが[1]、松平広忠は父祖の忠勤によって家督継承を認め[1]、景忠の叔父にあたる松平信次(長左衛門)に家政を執らせた[1]。
永禄3年(1560年)の丸根攻めの際には、若年でありながら戦功を挙げ、松平元康(徳川家康)から褒美の金盃を賜った[1]。永禄6年(1563年)、三河一向一揆勢と矢作川で対陣した際には、家康の命を受けて景忠が配下の松下清兵衛が遠矢を射させ、一揆勢を退けたという[1]。以後、遠江進攻、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いにも従軍した。長篠の戦いの際には、奥平信昌の加勢として長篠城に入城し、防戦にあたっていた[1]。長久手の戦いには弟の正幸とともに参戦し、池田勝入(池田恒興)の軍勢と戦った[1]。文禄元年(1592年)の肥前名護屋城出陣にも従った[1]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第二十七
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション