松平忠吉 (桜井松平家)
戦国時代から安土桃山時代の武将
松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。桜井松平家5代当主。三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄2年(1559年) |
死没 | 天正10年6月24日(1582年7月13日) |
別名 | 通称:與次郎[1] |
神号 | 与呂豆伊加志男命[注釈 1] |
戒名 | 本性院殿法誉一岳道隣大居士 |
墓所 | 桜井山菩提寺(愛知県安城市桜井町) |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 桜井松平家 |
父母 | 父:松平家次 |
兄弟 | 忠正、忠吉、忠広、菅沼定盈継室 |
妻 | 多劫姫(久松俊勝娘) |
子 | 信吉、忠頼 |
略歴
編集松平家次の次男として誕生した。
天正5年(1577年)、当主であった兄・忠正が死去し[1]、忠正の嫡子・家広(亀千代)はまだ生まれたばかりであったため、兄の正室であった多劫姫(徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継ぐ[1]。
天正9年(1581年)の高天神城攻めに従い[1]、諏訪原に出城を築いて守るなどの軍功を挙げた[1]。高天神城攻めでの功績にを受け、桜井と東条の間で紛争となっていた400石の地が加増された[1]。のちに改めて尾張国品野で2000石の地を与えられたという[1]。
天正10年(1582年)6月24日、24歳で死去した[1]。家督は家広が継いだが[1]、家広は依然幼少であるために、忠吉の弟の忠広が後見となり、同年の甲斐攻め(天正壬午の乱)にも忠広が従っている[1]。
系譜
編集『寛政重修諸家譜』では子の筆頭の位置に遺跡相続者として松平家広(多劫姫と忠正の子)を置いている[1]。長男[注釈 2]の信吉は、松平信一の婿養子となって藤井松平家の家督を相続した(上野国高崎藩主、次いで丹波国篠山藩主)。また、次男[注釈 3]の忠頼は、家広の死後に家督を継いだ(武蔵国松山藩主)。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第五
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)