松平 勝忠(まつだいら かつただ)は、江戸時代前期の大身旗本交代寄合)。名は勝易(かつやす)とも[2][1][注釈 2]官位従五位下豊前守。下総国多古陣屋を居所とし、駿府城代を務めて最終的に9500石を知行した。多古松平家は次代で大名に列する(多古藩)。

 
松平勝忠
時代 江戸時代前期
生誕 元和9年(1623年
死没 延宝8年5月24日1680年6月20日
改名 松平勝忠→勝易[1]
別名 兵部[2]、半左衛門[2](通称)
戒名 道雨[2]
墓所 静岡市葵区慈悲尾の増善寺
官位 従五位下豊前守
幕府 江戸幕府書院番大番頭駿府城代
主君 徳川家光家綱
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝義 母:安藤重能の娘[注釈 1]
兄弟 勝則勝忠土屋知義勝光勝直
勝郷勝秀木村清真勝以
正室:川勝広尚[2]
養子:勝以
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生涯

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元和9年(1623年)、松平勝義の二男として、江戸で誕生[2][1]寛永11年(1634年)8月16日、駿府において上洛からの帰途にあった3代将軍・徳川家光に、兄・勝則(勝就)とともに拝謁する[2](当時、当主である祖父の松平勝政が駿府城代を務めていた[3])。正保2年(1645年)6月26日に書院番に列した[2]。正保4年(1647年)12月20日、蔵米300俵を支給される[2]寛文9年(1669年)7月8日、書院番組頭に昇進し、300俵を加えられる[2]。同年、兄の勝則が亡くなったため[2]、嗣子となった[1]

寛文10年(1670年)、父・勝義が死去したため、12月18日に家督を継承する[2]。この時、弟・勝光勝郷(勝忠)に500石ずつ知行を分与し、7000石を知行した[2](先に与えられた蔵米は収公[2][注釈 3]。寛文11年(1671年)5月4日に書院番頭となり、同年12月28日には従五位下・豊前守に叙任された[2]。同年、下総国香取郡にあった知行地の一部を下総葛飾郡上総国武射郡長柄郡山辺郡に移されている[2][注釈 4]。椿新田(椿海干拓)の功労とされる[1]。延宝元年(1673年)に初めて多古に赴く暇を賜った[1]

延宝2年(1674年)8月29日に大番頭[2]、延宝4年(1676年)6月3日に駿府城代に任命された[2]。この際に上総国武射・長柄・埴生・山辺郡で2000石を加増され、知行は合計9500石となった[2][1]。延宝8年(1680年)5月24日、駿府において58歳で死去[2]。同様に駿府城代在任中に死去した祖父・勝政の墓所がある、慈悲尾の増善寺に葬られた[2][5][注釈 5]。嗣子が無かったため、養子となっていた末弟の勝以が跡を継いだ[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛政譜』では、兄である勝則と同じとある[2]
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』編纂時に松平家から提出された系譜(「今の呈譜」)に勝易とある[2]
  3. ^ このほか、弟の勝秀が別家を起こしており、その孫の松平勝尹が本家を継いで多古藩3代藩主となる[1][4]
  4. ^ 『多古町史』では書院番頭になった年(「寛文十年」とする)、香取郡大寺村に代わり、下総国葛飾郡、上総国武射・長柄・山辺4郡内で7か村が与えられたと記す[1]
  5. ^ 増善寺には勝政と勝忠の墓(宝篋印塔)が並んでいる[5]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 通史編第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.280、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.286。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.279、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.285。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.284、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.290。
  5. ^ a b 歴史案内 松平豊前守勝政と徳川家”. 増善寺. 2022年3月15日閲覧。

参考文献

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