東ガンガ朝
- 東ガンガ朝
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5世紀末 - 1434年 →
オリッサ地方-
首都 カリンガナガル - 元首等
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? - 893年 インドラヴァルマン 1424年 - 1434年 バーヌ・デーヴァ4世 - 変遷
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建国 1078年 滅亡 1434年
東ガンガ朝(ひがしガンガちょう、英語:Eastern Ganga dynasty)とは、5世紀末から15世紀前半にかけて、東インド、オリッサ地方に存在したヒンドゥー王朝(5世紀末 - 1434年)。南インドのマイソール地方(現カルナータカ地方)にも、同名の西ガンガ朝(350年 - 1000年)が存在したため、この王朝は区別して、「東ガンガ朝」と呼ばれている。首都はカリンガナガル。
歴史
編集成立
編集東ガンガ朝は5世紀末まで起源をさかのぼる、とても歴史の長い王朝であった[1]。
この王朝の記録が明確に現れるようになったのは、9世紀末のインドラヴァルマン[要曖昧さ回避]の治世からである。
最盛期と内乱
編集アナンタヴァルマンはこの王朝のもっとも偉大な王で、その72年にわたる長い治世、この王朝は最盛期を迎え、北はガンジス川、南はゴーダヴァリー川に至るまでの、広大な大帝国を築いた[1]。
また、12世紀にオリッサのプリーに現在にまで残る巨大なヒンドゥー寺院、ジャガンナート寺院を建設したのも、彼の業績の一つである[1]。 だが、アナンタヴァルマンの死後、1147年から1178年まで31年間、王位は空位であり、おそらくは王位継承をめぐって争いがあったと考えられる。
結局、1178年にアナンタヴァルマンの息子ビーマ・デーヴァ2世が王位につき、戦争は終結したが、この間に南西ベンガルは、ベンガル地方のセーナ朝の支配下にはいっていた。南西ベンガルは二度と東ガンガ朝の領土には戻らなかった[1]。
デリー・スルターン朝との戦い
編集11世紀末、ゴール朝のインド方面の司令官アイバクは、北インドを制圧し、その武将ムハンマド・バフティヤール・ハルジーがセーナ朝を蹂躙してベンガル地方を手にした。そして、1200年以降オリッサに侵入してきたが、ビーマ・デーヴァ2世の孫ラージャラージャ2世はこれを撃退した[2]。
1216年から1235年かけて、息子ビーマ・デーヴァ3世も同様に、デリー・スルターン朝の奴隷王朝の軍を撃退している[2]。
その息子ナラシンハ・デーヴァ1世の治世は反撃に出て、1243年に奴隷王朝の支配するベンガル地方に侵攻し、その守備軍の指揮官を討ち、ベンガルの首府ガウル(ラクナワティ)の門前にまで来た[2]。だが、アワド地方から多数援軍が到着しつつあることをある知り、彼は帰還した[2]。ナラシンハ・デーヴァ1世は奴隷王朝と4度以上戦い、最後の戦いでは敗れてしまい、オリッサの領土に侵攻された[2]。この王はコナーラクの寺院を建設したことで知られている。
だが、その孫ナラシンハ・デーヴァ2世はナラシンハ・デーヴァ1世の治世に奪われたオリッサの領土を奪還した[2]。それだけではなく、南西ベンガルから奴隷王朝の勢力を追い払い、ガンジス川にまで侵攻した[2]。彼は1296年にガンジス川の土手から勅令を発している。
1323年、トゥグルク朝の軍司令官ウルグ・ハーンは、デカンのカーカティーヤ朝を滅ぼし、南インドのホイサラ朝を再服従させたあと、西からオリッサに侵攻した[2]。だが、ナラシンハ・デーヴァ2世の息子バーヌ・デーヴァ2世に撃退された[3]。
このように、東ガンガ朝の歴史はデリー・スルターン朝との絶え間ない戦いにあり、その独立を守るために戦い続けなければならなかった。
衰退・滅亡
編集ナラシンハ・デーヴァ3世の治世、1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により、トゥグルク朝から多数の地方長官が独立したが、ここから東ガンガ朝は衰退していった[4]。
バーヌ・デーヴァ3世の治世、東ガンガ朝の領土はベンガル・スルターン朝やヴィジャヤナガル王国といった新興勢力の標的となり、さらには1358年から1359年にベンガル・スルターン朝に遠征していたフィールーズ・シャー・トゥグルク率いるトゥグルク朝の軍勢にも攻撃された[4][5]。フィールーズ・シャーの軍勢は1360年にビハールからオリッサに侵入したのち、首都を占領し、多くの人々を殺害したばかりか、ジャガンナート寺院を略奪した[6][5]。
その息子ナラシンハ・デーヴァ4世の治世には、バフマニー朝、マールワー・スルターン朝、ジャウンプル・スルターン朝からの遠征軍を受け、王朝は衰退したが、攻撃に耐え抜いて独立を守った[4]。
1424年、ナラシンハ・デーヴァ4世の死後、息子のバーヌ・デーヴァ4世が即位したが、王国の実権は宰相のカピレーンドラに握られた[4]。
1434年、宰相カピレーンドラはバーヌ・デーヴァ4世を廃して、ガジャパティ朝を樹立し、10世紀続いた東ガンガ朝はその歴史に幕を閉じた[4]。
歴代君主
編集- インドラヴァルマン(Indravarman, 在位:? - 893年)
- デーヴェーンドラヴァルマン4世(Devendravarman IV, 在位:893年 - ?)
- ヴァジュラハスタ・アナンタヴァルマン(Vajrahasta Anantavarman, 在位:1038年 - ?)
- ラージャラージャ1世(Rajaraja I, 在位:? - 1078年)
- アナンタヴァルマン(Anantavarman, 在位:1078年 - 1147年)
- ビーマ・デーヴァ2世(Bhima Deva II, 在位:1178年 - 1198年)
- ラージャラージャ2世(Rajaraja II, 在位:1198年 - 1211年)
- ビーマ・デーヴァ3世(Bhima Deva III, 在位:1211年 - 1238年)
- ナラシンハ・デーヴァ1世(Narasimha Deva I, 在位:1238年 - 1264年)
- バーヌ・デーヴァ1世(Bhanu Deva I, 在位:1264年 - 1279年)
- ナラシンハ・デーヴァ2世(Narasimha Deva II, 在位:1279年 - 1306年)
- バーヌ・デーヴァ2世(Bhanu Deva II, 在位:1306年 - 1328年)
- ナラシンハ・デーヴァ3世(Narasimha Deva III, 在位:1328年 - 1352年)
- バーヌ・デーヴァ3世(Bhanu Deva III, 在位:1352年 - 1378年)
- ナラシンハ・デーヴァ4世(Narasimha Deva IV, 在位:1378年 - 1424年)
- バーヌ・デーヴァ4世(Bhanu Deva IV, 在位:1424年 - 1434年)
脚注
編集参考文献
編集- P・N・チョプラ 著、三浦愛明 訳『インド史』法蔵館、1994年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。