村上孝太郎
村上 孝太郎(むらかみ こうたろう、1916年(大正5年)6月29日[1] - 1971年(昭和46年)9月8日[2])は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員(1期)。位階は従三位、勲等は勲二等。
経歴
編集本籍愛媛県[2]越智郡宮窪村(宮窪町を経て現今治市)[3]。東京で村上常太郎の長男として生まれる[4]。広島高師附属中学校(現広島大附属中)、第一高等学校を経て、1939年(昭和14年)東京帝国大学法学部政治学科卒業[2]。東京帝大在学中の1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格[4]。卒業後は大蔵省に入省[5]。配属先は専売局長官官房書記兼大臣官房文書課[6][7]。神戸税関総務部長[7]、神戸税関業務部長兼税関長官房主事[7]、主計局主計官(商工、労働、連絡調整担当)、主計局主計官兼主計局総務課[7]、主計局主計官(総理府担当)、主計局主計官(保安担当)、主計局法規課長[8]、主計局総務課長、経済企画庁長官官房長[9]などを経て、1965年(昭和40年)4月23日、大蔵省官房長。在任中に証券不況が発生、戦後初めて赤字国債を発行したことの将来への危惧感から、複数年度予算を認めて財政に弾力性をつける方針を省内でまとめる。しかし、この方針は内閣法制局(長官高辻正己)から「憲法86条の会計年度独立の原則に反する」と判断されて頓挫する。そこで次善策として、徹底した歳出削減を求める"財政硬直化打破キャンペーン"を打ち出し、国会議員に説いて回った[10][11][12]。
1967年(昭和42年)1月10日、事務次官谷村裕のもとで、主計局長[2]を務める。
1968年(昭和43年)大蔵事務次官[2]就任。1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党の公認を受け、『走れコウタロー』をキャンペーンソングに初当選したが、登院は1日のみで癌で倒れ、わずか3か月後の同年9月8日に、参議院議員在任のまま肝硬変のため死去、55歳[5][13]。死没日をもって勲二等瑞宝章追贈、従六位から従三位に叙され[14]。なお、選挙に当たっては全農、九州酒造杜氏組合、キリンビール名古屋支店などから支援を受けたが、支援者の中から法定外文書違反、買収で22人の逮捕者を出している[15]。
親族
編集著作
編集- 『補助金等適正化法の解説』大蔵財務協会、1955年。
- 『日本の世紀との対話』大村書店、1970年。
- 村上倫太郎編『村上孝太郎一巻集:一行政官の思想と行動』村上倫太郎、1977年。
脚注
編集- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』612頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』422頁。
- ^ 『愛媛県百科大事典』下、566頁。
- ^ a b 『日本近現代人物履歴事典』516頁。
- ^ a b 第67回国会 参議院 本会議 第1号 昭和46年10月16日
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、330頁
- ^ a b c d 『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』大蔵財務協会、1973年1月発行、174頁
- ^ 第22回国会 参議院 大蔵委員会 第2号 昭和30年3月29日
- ^ 第46回国会 参議院 内閣委員会 第42号 昭和39年6月25日
- ^ 倉山, pp. 165–173.
- ^ 財政硬直化 - 国立社会保障・人口問題研究所 (PDF)
- ^ 幻の財政硬直化打破キャンペーン - 村上誠一郎公式サイト
- ^ a b 「村上 孝太郎」 。コトバンクより2023年2月19日閲覧。
- ^ 『官報』第13420号18-19頁 昭和46年9月13日号
- ^ 「元官僚派の違反目立つ」『中國新聞』昭和46年7月8日、7面。
参考文献
編集- 『愛媛県百科大事典』下、愛媛新聞社、1985年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 倉山満『検証 財務省の近現代史』光文社新書、2012年3月20日。ISBN 978-4-334-03674-4。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
官職 | ||
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先代 谷村裕 |
大蔵事務次官 1968年 - 1969年 |
次代 澄田智 |
先代 谷村裕 |
大蔵省主計局長 1967年 - 1968年 |
次代 鳩山威一郎 |
先代 谷村裕 |
大蔵省大臣官房長 1965年 - 1967年 |
次代 亀徳正之 |
先代 吉岡英一 |
経済企画庁長官官房長 1963年 - 1965年 |
次代 澄田智 |