末弘直方
末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4年12月25日)[1] - 1920年(大正9年[2])1月16日[3])は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚。官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長。
経歴
編集薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現薩摩川内市平佐町)[1]で、薩摩藩士・末弘直温の三男として生まれる[4]。藩校造士館で学んだ[2]。
慶応3年9月10日(1867年10月7日)、薩摩藩組頭に就任。その後、役人、半隊長を務めた。明治4年8月(1871年)、御親兵の補充として上京し第三大隊一番小隊に編入され、明治5年8月10日(1872年9月12日)、伍長に任官。1873年10月、病のため除隊して帰郷した。同年11月、鹿児島県に奉職し、二等教授第二十八郷校掛となる[1]。
1874年8月、再度上京し警視庁四等巡査に任官。以後、一等巡査、警部補、兼千葉県十五等出仕、少警部、第一局詰、権中警部、二等中警部などを歴任[1]。1877年1月、同郷の警視庁警部、中原尚雄たちと帰郷し、西郷隆盛らの動向を探索中に私学校党に捕えられ、西南戦争勃発の遠因となった[5]。その後、二等中警部、権大警部、二等警視補、一等警視補、四等警視兼一等警察使を歴任し、1883年2月、警視庁を退職した[1]。
1883年5月、再び鹿児島県に奉職し、菱刈・姶良・桑原・囎唹郡長に就任。その後、高城・出水・伊佐・薩摩・甑島郡長、谿山・北大隅郡長などを歴任[1]。
1889年3月、再び警視庁に転じ三等警視となる。以後、小石川警察署長、小石川町警察署長、第五第六方面監督、二等警視、宮城県警部長[6]、警視庁警視・巡査本部長、同第二部長、同第一部長などを歴任[1]。
1897年4月、高知県知事に就任[4]。1898年7月、岩手県知事に転任。岩手県農学校を開校するなど学校の整備に尽力[7]。1900年4月、知事を休職[8]。同年10月、香川県知事に就任[9]。1902年2月に知事を休職となった[10]。
その後、函館区長[11](1903年9月 - 1904年9月)、小倉市長(1906年5月[12] - 1912年5月[13])を歴任。1914年10月、福岡県遠賀郡八幡町長に就任[14]。同町が市制施行し、1917年7月、初代市長に就任し[15]、1918年9月に辞任した[16]。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
家族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g 「末弘直方北海道函館区長就任ノ件」
- ^ a b 『幕末維新大人名事典 下巻』674-675頁。
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、26頁。
- ^ a b 『新編日本の歴代知事』941頁。
- ^ 『警視庁史 明治編』134頁。
- ^ 『官報』第2325号、明治24年4月4日。
- ^ 『新編日本の歴代知事』121頁。
- ^ 『官報』第5044号、明治33年4月28日。
- ^ 『新編日本の歴代知事』894頁。
- ^ 『官報』第5578号、明治35年2月10日。
- ^ 『函館市史 通説編 第3巻』33-35頁。
- ^ 『官報』第6871号、明治39年5月28日。
- ^ 「従四位竜岡信熊福岡県小倉市長就任ノ件」
- ^ 『北九州市史 近代・現代 行政・社会』311頁。
- ^ 『官報』第1491号、大正6年7月20日。
- ^ 「堀口助治福岡県八幡市長就任ノ件」
- ^ 『官報』第2992号「叙任及辞令」1893年6月21日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第4196号「叙任及辞令」1897年6月29日。
- ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典 下巻』新人物往来社、2010年。
- 『警視庁史 明治編』警視庁史編さん委員会、1959年。
- 函館市史編さん室編『函館市史 通説編 第3巻』函館市、1990年。
- 北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代 行政・社会』北九州市、1987年。
- 内閣「末弘直方北海道函館区長就任ノ件」明治36年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・任B00341100
- 内閣「従四位竜岡信熊福岡県小倉市長就任ノ件」大正元年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00654100
- 内閣「堀口助治福岡県八幡市長就任ノ件」大正7年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00862100