朝倉将景
室町時代後期の武士
朝倉 将景(あさくら ゆきかげ/まさかげ)は、室町時代中期の武将。越前国鳥羽[1]に領地があったと考えられ、姓を「鳥羽」とすることもある。
時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 長禄3年8月11日(1459年9月7日) |
別名 | 鳥羽将景、弾正左衛門 |
戒名 | 先照郎用/光照郎用 |
官位 | 豊後守 |
主君 | 朝倉家景 |
氏族 | 朝倉氏 |
父母 | 父:朝倉教景 |
兄弟 | 家景、将景 |
子 | 景正、円渓眞成大姉(朝倉孝景正室) |
略歴
編集朝倉氏5代当主・朝倉教景の子として誕生。斯波義将から偏諱を受けているため、応永17年(1410年)以前の生まれと思われる。
7代当主となった甥の孝景とは反目し、長禄2年(1458年)に始まった守護斯波義敏[2]と守護代・甲斐常治との合戦(長禄合戦)では、守護側に与して孝景と対立した。翌長禄3年(1459年)8月11日、越前足羽郡和田荘の合戦で堀江利真と共に孝景らに討ち取られた。子・景正も和田での合戦で討ち取られたが、将景の曾孫である朝倉景富[3]が鳥羽家を継いでいる。
娘は孝景に嫁いでおり、孝景とは義理の親子関係にある。彼女との間に氏景が生まれた。