朝倉光玖

室町時代の武将・僧

朝倉 光玖(あさくら こうきゅう)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将朝倉氏の家臣。

 
朝倉光玖
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 永享12年(1440年[1]
死没 明応3年1月5日1494年2月10日
別名 慈視院光玖(法名)
主君 朝倉孝景氏景貞景
氏族 朝倉氏
父母 朝倉家景
兄弟 堀江利真室、孝景経景、輿市郎、
景冬光玖、聖室宗麟、久嶽紹良、定国
教景
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略歴

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朝倉氏6代当主・朝倉家景の子として誕生。幼少の頃に京都臨済宗建仁寺越前国安居弘祥寺に入っていたらしい。

しかし、僧籍ながら寛正2年(1461年)には朝倉家の代官として坪江、河口庄における段銭徴収のため越前へ下向している。文明元年(1469年)には足羽郡にある一条家の庄園を侵略し、延徳元年(1489年)には洞雲寺福井県大野市)に大野郡の鍬懸・弘名の内得を安堵する[2]などしている。国中奉行や大野郡郡司に任じられ兄・孝景の越前平定に尽力、孝景亡き後は甥の氏景、大甥の貞景の補佐も務めた。

養子に迎えていた甥の教景(氏景の弟)が、教景の兄・景総に殺害されると景総と衝突したが、後に和解している。

脚注

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  1. ^ 明応3年(1494年)に55歳で死去していることから、生年は逆算して永享12年(1440年)と推定される。
  2. ^ 大日本史料』第8編之27 407頁

出典

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  • 『洞雲寺文書』