服部逸郎
服部 逸郎(はっとり いつろう、1907年12月3日 - 1973年8月5日)は、昭和期の日本の作曲家、歌手、作詞家、元アナウンサーである。別名をレイモンド服部、服部レイモンド、服部ヘンリー。なお、同姓の服部良一や服部正との血縁関係はない[1]。
経歴
編集1907年(明治40年)12月3日、神奈川県横浜市出身。若い頃にキリスト教に入信した為、洗礼名をレイモンドという。
1931年(昭和6年)慶應義塾大学文学部卒業後に作曲家としての活動を開始。ハワイへの音楽留学から帰国した1934年(昭和9年)1月に、NHKが初めて行った全国規模でのアナウンサー採用試験に応募し、応募者728名中25名の合格者の1人として入局。アナウンサーの同期には、和田信賢や竹脇昌作らがいる。しかし、3ヶ月の養成期間終了後に配属先が大阪に決まった際、「大阪では音楽活動が出来ない」としてNHKを退職し、フリーの作曲家となり、コロムビア、キング、テイチク、ニットー等で作曲した[2]。
その後、コロナ・レコードの専属となり、同社がポリドール・レコードに買収されると、ポリドールの専属となった[3]。
ポリドールに移籍し、『忠治子守唄』、『親恋道中』がヒット。その後、日本コロムビアに戻り、『ヤットン節』、『東京ワルツ』がヒットする。自身でも東京交響吹奏楽団を組織。服部の名が特に知られているのはTBSテレビ・ラジオのスポーツテーマ『コバルトの空』の作曲である。
おもなディスコグラフィ
編集歌謡曲
編集- 『恋のステップ』、1934年(昭和9年)10月、高橋掬太郎作詞、歌:三笠静子(のちの笠置シヅ子)
- 『忠治子守唄』、1938年(昭和13年)2月、野村俊夫作詞、歌:東海林太郎
- 『戦場子守唄』、1938年(昭和13年)8月、佐藤惣之助作詞、歌:東海林太郎
- 『旅の子守唄』、1938年(昭和13年)12月、野村俊夫作詞、歌:北廉太郎
- 『親恋道中』、1939年(昭和14年)3月、藤田まさと作詞、歌:上原敏
- 『戦場初舞台』、1940年(昭和15年)5月、佐藤惣之助作詞、歌:東海林太郎
- 『広東航路』、1940年(昭和15年)11月、樋口晴雄作詞、歌:近江士郎(のちの近江俊郎)
- 『南への道』、1941年(昭和16年)6月、西原武三作詞、歌:上原敏
- 『南国の故郷』、1941年(昭和16年)6月、松坂直美作詞、歌:如月俊夫
- 『空のふるさと』、1945年(昭和20年)1月、大木惇夫作詞、歌:近江俊郎、松原操
- 『ヤットン節』、1951年(昭和26年)7月、野村俊夫作詞、歌:久保幸江(尚、此の曲は後にシンガポールで黄清元によってカヴァーされ広まった。)
- 『ゴメンナサイ』(『GOMEN NASAI』)1953年(昭和28年)MAYERS BENEDICT作詞、歌:ハリー・ベラフォンテ [5] [6]
- 『東京ワルツ』、1954年(昭和29年)1月、西沢爽作詞、歌:千代田照子
- 『新ヤットン節』、1954年(昭和29年)2月、野村俊夫作詞、歌:久保幸江
- 『敦賀ブルース』、1954年(昭和29年)8月、門田ゆたか作詞、歌:黒木曜子
- 『月を見ていたら』、1954年(昭和29年)、野村俊夫作詞、歌:青木光一
- 『ワゴンマスター』、1954年(昭和29年)、奥山靉作詞、歌:小坂一也
- 『ハイティーンベビー』、1958年(昭和33年)7月、服部逸郎作詞、歌:中島そのみ
- 『無敵のライフルマン』、1961年(昭和36年)、服部逸郎作詞、歌:小坂一也
- 『なんて云ったらいいかしら』1962年(昭和37年)、原 由記作詞、歌:若草多佳子
行進曲
編集- 『コバルトの空』、1951年(昭和26年)、TBSテレビ・ラジオスポーツテーマ、服部逸郎作曲
- 『川越マーチ』、1957年(昭和32年)、服部逸郎作曲
- 『行進曲 スポーツマン』、1964年(昭和39年)、NETテレビ(現:テレビ朝日)・スポーツテーマ、服部逸郎作曲
市民歌
編集フィルモグラフィ
編集- 音楽
著書
編集脚注
編集出典
編集参考資料
編集- 『アナウンサーたちの70年』(NHKアナウンサー史編集委員会編・講談社 ISBN 4-06-203232-5)(1992年)