斯波家兼
南北朝時代の武将。奥州管領。斯波高経の同母弟。奥羽斯波氏の祖。大崎氏の祖。大崎氏初代。
斯波 家兼(しば いえかね)は、南北朝時代の武将。奥州管領。斯波高経の異母弟。奥羽斯波氏の祖。足利尊氏が倒幕の兵を挙げると兄・高経とともにこれに従い、後に建武政権に叛旗を翻した際も従うなど、足利氏の嫡流である尊氏を支え続けた。
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 徳治3年(1308年) |
死没 |
延文元年/正平11年6月13日 (1356年7月11日) |
改名 | 千代鶴丸(幼名)→時家(初名)→家兼 |
別名 | 彦三郎、式部大夫(通称) |
戒名 | 長国寺殿円承 |
官位 | 正五位下、式部丞、式部大輔[1]、伊予守、左京権大夫[2] |
幕府 | 室町幕府若狭守護[1]、引付頭人、奥州管領 |
主君 | 足利尊氏 |
氏族 | 斯波氏 |
父母 | 父:斯波宗氏、母:長井時秀の娘 |
兄弟 | 高経、家兼 |
子 | 斯波持義、西室持頼[4]、斯波将頼 |
生涯
編集斯波氏は足利の姓を公称する御家人で、足利尾張家とも号する名門であった。
徳治3年(1308年)斯波宗氏の子として生を受ける。父は早世したらしく、早くから3歳年長の兄・斯波高経が公式の場で公務を務めている[5]。やがて鎌倉幕府が倒れ、建武の新政に叛旗を翻した足利尊氏が延元元年6月(1336年)九州から京都に戻ると、7月若狭守護に任じられる[1]。北陸へ赴くと南朝・新田勢と争い[6]、越前守護の兄と協力して南朝の最有力武将であった新田義貞を、延元3年(1338年)に滅ぼした[7]。観応の擾乱の際には、直義方の高経とは同調せず尊氏方に味方し、引付頭人に任じられた。
文和3年/正平9年(1354年)に奥州管領に任命され、奥州に下向し中新田城を拠点とした。前探題の吉良貞家、畠山国詮、石塔義憲、さらに石橋棟義との争いを克服し、奥羽における斯波氏の優位を固め、管領職(後の奥州探題)の世襲を確立した。延文元年/正平11年(1356年)6月13日、奥州管領在任2年にして没した[8]。享年49。
なお、家兼の奥州下向年は延元4年/暦応2年(1339年)とする説もあるが、信憑性は低い。後の大崎氏、最上氏、天童氏などの祖であり、また、斯波家長の末裔とされる高水寺斯波氏も、一度断絶したのちに大崎氏が再興した一族とされることもある。
脚注
編集- ^ a b c 『大日本史料』6編3冊637頁。
- ^ 『大日本史料』6編19冊248頁。
- ^ 『系図纂要』によれば持義と同一人物であり『続群書類従』によれば、塩松伊予守持義にあたる。
- ^ 持頼式部大輔西室殿 続群書類従 5上(系図部)
- ^ 「北条貞時十三年忌供養記」
- ^ 『大日本史料』6編4冊791頁。暦応元年4月14日条。
- ^ 『大日本史料』6編4冊903頁。「太平記」
- ^ 『大日本史料』6編20冊614頁。「尊卑文脈」