才賀藤吉
才賀 藤吉(さいが とうきち、1870年8月7日(明治3年7月11日[1]) - 1915年(大正4年)7月29日[2])は、明治末期から大正初期にかけて活躍した実業家、代議士。各地の電気会社や鉄道会社の経営に参画し、電気王と称された。
さいが とうきち 才賀 藤吉 | |
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生誕 |
1870年8月7日 日本・大阪 |
死没 | 1915年7月29日(44歳没) |
出身校 | 共立学校(現・開成高等学校) |
職業 |
実業家 衆議院議員 |
生涯
編集才賀電機商会創立まで
編集1870年大阪に生まれる。大阪の実業家の丁稚となり、その実業家の援助により共立学校(現・開成高等学校)に入学する。卒業後大阪電灯株式会社に入社。1893年には退社して東京の三吉電機工場[3]に入社する。三吉電機工場は京都電気鉄道(後の京都市電)の建設工事を請負い、そこで才賀は現場監督となる。1896年三吉電機工場を退社して今までの経験を元に京都で才賀電機商会を設立する。
才賀電機商会の展開
編集才賀電機商会は当初紡績工場での照明電気工事の請負などしていたが、やがて地方の電気会社(電力会社)や鉄道の設立に関与するようになった[4]。
地方では電気会社(電力会社)や鉄道の設立の機運が高まっていた[5]がノウハウに乏しく、技術者や関係官庁との折衝ができる人物を必要としていた。そういった地方に才賀が乗り込み提案した。才賀電機商会が工事を請け負い、資材の購入をし、技術者を送り込んで技術指導をする。資金が不足していれば資金の提供をする。そうすることによって電気会社(電力会社)や鉄道が地方でも実現できた。
才賀は全国を飛び回り地方の資本家たちに提案していき短期間のうちに次々と会社を設立しその会社の責任者となった。才賀が関係した企業は100社とも150社ともいわれている。当時の新聞によると破綻した時点で以下の各社の名が挙げられている[6][7]。
- 開業之部
- 伊予鉄道(愛媛)、岡崎電気軌道(愛知)、岩村電気軌道(岐阜)、成宗電気軌道(千葉)、美濃電気軌道(岐阜)、王子電気軌道(東京)、吾妻温泉馬車軌道(群馬)、松阪軽便鉄道(三重)、伊予水力電気(愛媛)、七尾電気(石川)、尾鷲電気(三重)、摂津電気、鞆電気(広島)、中国電気(広島)、大分水力電気(大分)、東児島電気(岡山)、北備電気(岡山)、両丹電気[8](京都)、出雲電気(島根)、松阪水力電気(三重)、明石電灯(兵庫)、和歌山水力電気(和歌山)、岩内水力電気(北海道)、日向水力電気(宮崎)、新潟水力電気(新潟)、伊予電力織布(愛媛)[9]、篠山電灯(兵庫)、沖縄電気(沖縄)、碧海電気(愛知)
- 未開業之部(目下工事中)
- 大津電車軌道(滋賀)、沖縄電気軌道(沖縄)、鞍手軽便鉄道(福岡)、讚岐電気軌道(香川)、宮崎軽便鉄道(宮崎)、磐城軽便鉄道、玉島軽便鉄道(岡山)[10]、伊勢鉄道(三重)、立山軽便鉄道(富山)、三島電気(新潟)、高浜電気(福井)、宗像電気(福岡)、曦電気(千葉)、東金電気(千葉)、水海道電気(茨城)、芸備電気、犬養水力電気(大分)、湯平水力電気(大分)、北原水力電気(高知)、一畑軽便鉄道(島根)、三河鉄道(愛知)、信濃鉄道(長野)、大島電気(山口)、新見電気(岡山)、隠岐電灯(島根)、浜阪電灯(岡山)、房総電気(千葉)、井原電気(岡山)、因島電気(広島)、下妻電気(茨城)、霧島水電[11](宮崎)、江戸川電気[12](東京)
- 許可未設立の分
- 彦島電気(山口)、庄原電気(広島)、浅口電気(岡山)、木の江電気(広島)、瀬戸田電気[13]、牛窓電気(岡山)。
また代議士を務めていた伊予鉄道社長の井上要が立候補を辞退して才賀が後継に指名され[14]、愛媛県から1908年に代議士に、1912年にも再選される[15][16]。
才賀電機商会の破綻
編集設立した鉄道会社などから工事代金を株式で受け取り、それを担保に金融機関などから融資を受けさらに新規事業に投入するという形で拡大を続けた才賀電機商会であったが経理は不透明であり、取引金融機関にさえ営業報告書を提出しなかった。 そして三井の不正手形事件がおこってからは金融機関が手形に対して警戒を強め、手形割引しづらい状況ができていた中、明治天皇の大喪の礼により一斉に銀行が1912年9月13日より15日まで臨時休業した。その結果地方からの入金が滞ったため9月16日不渡りをだし、才賀電機商会はいきづまった。
才賀は北浜銀行の岩下清周や日本生命の片岡直温らに救済を求めた。紆余曲折のうち岩下清周は日本興業株式会社[17]を設立して再建に向かって動き出したが、その後日本生命は手を引き北浜銀行が破綻したため、日本興業は解散せざるを得なくなり、救済はならなかった。
関係する会社の代表を退いた才賀は日本興業で一社員として勤めることとなりその後1915年に亡くなった。宮崎鉄道では弔慰金100円を支給している[18]
脚注
編集- ^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「議員死去」『官報』1915年8月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 三吉電機工場は工部省を退職した三吉正一が設立した工場で、民間では最初期に発電機を制作した。京都電気鉄道には電車の電動機をおさめている。1898年に倒産、工場は岩垂邦彦が買収して日本電気の母体となった。
- ^ 1897年に才賀は九州の電気軌道(田尻によると豊州電気鉄道)に機械を納めたが開業が遅れたため代金の回収ができなかった。そのため才賀は工事の督励と資金の調達をし無事軌道を開通させたという。このときの会社設立の経験からやがて本格的に参入するようになったという。
- ^ 1910年に逓信省電気局が把握した1年間の計画事業者数は電灯企業104電気軌道と電灯兼営を計画した企業91であった。ただ後年開業に至った企業は1/4に満たなかったという。
- ^ 会社所在地は『伊予鉄道百年史』102頁を参照。
- ^ このほかにも石川鉄道(石川)、防石鉄道(山口)、宇和島鉄道(愛媛)、天理軽便鉄道(奈良)、野辺地電気(青森)、鉾田電気(茨城)、行方電気(茨城)、筑波電気(茨城)、蒲江電気(大分)、吉田電気(広島)に才賀の名前が見られる。
- ^ 1912年に宮津電灯、丹波電気、丹後電気三社合併社名変更したもの『電気事業要覧. 第8回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 設立明治40年社長小林信近『日本全国諸会社役員録. 明治44年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1911年8月免許(爪崎-玉島間)「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年9月4日。1915年失効「軽便鉄道免許失効」『官報』1915年2月6日(国立国会図書館デジタル化資料)
- ^ 1912年(大正元年)9月日向水力電気に合併『電気事業要覧. 第7回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1913年9月事業開始『電気事業要覧. 第7回』1917年東京電灯に事業譲渡『電気事業要覧. 第10回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 会社未設立『電気事業要覧. 第〔6〕回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「井上要」『愛媛県史 人物』1989年、70-71頁
- ^ 議員の無料パスで全国をまわっていたという。
- ^ 衆議院要覧(国会図書館デジタルコレクション)によると第10回(明治41年)から第12回(大正4年)の3回当選
- ^ 取締役岩下清周、中島久万吉、速水太郎、郷誠之助、馬越恭平、北岡鶴松『日本全国諸会社役員録. 第23回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 田尻弘行『宮崎交通鉄道部』RMライブラリー69、ネコパブリッシング、2005年、4-9頁
参考文献
編集- 小川功「明治末期、大正初期における生保の財務活動-電灯、電鉄事業への関与を中心として-」『生命保険経営』48巻5号、生命保険経営学会、1980年
- 田尻弘行『大分交通別大線』RMライブラリー85、ネコパブリッシング、2006年、4-5頁
- 三木理史「明治末期における地方公益事業の地域的展開-才賀電機商会を事例として-」『人文地理』第43巻第4号、1991年
- 三木理史「局地鉄道の普及と「指導者集団」-才賀電機商会の事業展開からの考察-」『近代日本の地域交通体系』大明堂、1999年
- 三木理史『局地鉄道』塙書房、2009年、84-91頁
- 吉田正雄「電燈産業発展における中間商人の役割-才賀電機商会及び川北電気企業社による電燈企業経営、1900-1930-」『三田商学研究』25巻5号、慶應義塾大学出版会、1982年
- 和久田康雄『人物と事件でつづる私鉄百年史』 鉄道図書刊行会、1991年、61-64頁
- 故岩下清周君伝記編纂会編『岩下清周伝-伝記・岩下清周-』大空社、2000年復刻 初版は1931年
- 「才賀事件の前途」『大阪毎日新聞』1912年9月21日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- 『伊予鉄道百年史』伊予鉄道、1987年
外部リンク
編集- 日本工業要鑑 明治42年第4版(国立国会図書館デジタルコレクション)才賀電機商会広告
- 第二十八議会衆議院議員写真列伝(国立国会図書館デジタルコレクション)才賀藤吉略歴及び肖像
- 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正元年(初版)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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