弘瀬健太(ひろせ けんた、天保7年(1836年)3月 - 文久3年6月8日1863年7月23日))は幕末の土佐藩士。名は年定。土佐勤皇党の幹部の一人として幕末に活躍した。

天保7年(1836年)3月、土佐藩井口村(現在の高知市井口町)に郷士の長男として生まれる。文久元年(1861年)8月に武市瑞山が結成した土佐勤皇党に参加。文久3年(1863年)6月8日)、青蓮院宮令旨事件の責で平井収二郎間崎哲馬と共に山内容堂切腹させられた。ここから容堂による土佐勤皇党への弾圧がはじまることになる。享年28。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[1]

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6