式乾門院御匣
日本の歌人、宮廷人
式乾門院御匣(しきけんもんいんのみくしげ、生没年不詳[* 1])は、鎌倉時代の歌人・官僚。女房三十六歌仙の一人。太政大臣久我通光の娘。安嘉門院三条とも呼ばれた[* 2]。また、如月の法名で呼ばれ、嘉元2年(1304年)に没した通光の娘と同一人物とも言われる[1]。日記文学『とはずがたり』の作者兼主人公である後深草院二条は、二条自身の主張する系図によれば式乾門院御匣の姪にあたることになる。
生涯
編集式乾門院(利子内親王)に出仕し、安貞2年(1228年)にその斎宮としての伊勢群行に同行[2]。斎宮退下後も北白河院で出仕を続けていたと思われる。建長3年(1251年)に式乾門院が没した後は、その妹である安嘉門院(邦子内親王)に出仕した。同じ主家に出仕していた阿仏尼(安嘉門院四条)との交流も知られる。『続後撰和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。弘安6年(1283年)、安嘉門院の四十九日にあたって藤原為信との歌の贈答があり、出家していたようである。
従三位為信
— 『玉葉和歌集』 巻第十七 雑歌四
けふはいかに涙ふりにし宮のうちも さらに時雨て袖ぬらすらん
返し 式乾門院御匣
涙のみいとゝふりそふ時雨には ほすひまもなき墨染の袖
一方で、同じ『玉葉和歌集』 に御匣の死を悼んだ歌[3]も見られる。
逸話
編集- 安嘉門院への宮仕えで御匣の同僚であった阿仏尼は、弘安2年(1279年)に鎌倉に到着してから京の知人達と手紙のやり取りを頻繁に行うが、この頃、御匣のことを、
式乾門院の御匣殿ときこゆるは、久我の太政大臣の御女、これも続後撰よりうちつづき二たび三たびの集にも、家々の打聞きにも、歌あまた入り給へる人なれば、御名も隠れなくこそは。今は安嘉門院に御方とて侍ひ給ふ。
— 『十六夜日記』
作品
編集歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 | 歌集名 | 作者名表記 | 歌数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
続後撰和歌集 | 式乾門院御匣 | 2 | 続古今和歌集 | 式乾門院御匣 | 7 | 続拾遺和歌集 | 式乾門院御匣 | 10 |
新後撰和歌集 | 式乾門院御匣 | 8 | 玉葉和歌集 | 式乾門院御匣 | 3 | 続千載和歌集 | 式乾門院御匣 | 5 |
続後拾遺和歌集 | 式乾門院御匣 | 3 | 風雅和歌集 | 新千載和歌集 | 式乾門院御匣 | 2 | ||
新拾遺和歌集 | 式乾門院御匣 | 4 | 新後拾遺和歌集 | 式乾門院御匣 | 1 | 新続古今和歌集 | 式乾門院御匣 | 5 |
名称 | 時期 | 作者名表記 | 備考 |
---|---|---|---|
住吉社歌合 | 弘長3年(1263年) | 安嘉門院三条 | |
玉津島歌合 | 弘長3年(1263年) | 安嘉門院三条 | |
八月十五夜歌合 | 文永2年(1265年) | ||
弘安百首 | 弘安元年(1278年) |
- 私撰集等
- 『現存和歌六帖』 建長元年(1249年)
- 家集は伝存しない。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 安田徳子 「式乾門院御匣について」 『聖徳学園岐阜教育大学国語国文学』17 1998年3月15日
- 井上宗雄 『鎌倉時代歌人伝の研究』 第三章 1997年3月 風間書房 ISBN 978-4759910360
- 井上宗雄・福田秀一 『中世歌合集とその研究 上』 1968年9月 未刊国文資料
- 十六夜日記――附 阿仏仮名諷誦 阿仏東くだり (岩波文庫) 1957年8月6日 岩波書店 ISBN 978-4003014011