床次徳二

日本の政治家・元総理府総務長官(1904−1980)

床次 徳二(とこなみ とくじ、明治37年(1904年2月4日 - 昭和55年(1980年2月22日)は、日本の政治家。元総理府総務長官1974年勲一等旭日大綬章受章。目白学園理事長及び目白学園女子短期大学(現・目白大学短期大学部)学長も務める。

床次徳二
とこなみ とくじ
生年月日 1904年2月4日
出生地 鹿児島県鹿児島市
没年月日 (1980-02-22) 1980年2月22日(76歳没)
出身校 東京帝国大学(現・東京大学
前職 内務省官僚
厚生省官僚
官選第43代徳島県知事
目白学園理事長
所属政党民主党→)
国民民主党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党(重光派→岸派→藤山派→福田派
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
衆議院永年在職議員
親族 父・床次竹二郎(元内務大臣鉄道大臣逓信大臣

内閣 第2次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1968年11月30日 - 1970年1月14日

選挙区 鹿児島県第1区
当選回数 10回
在任期間 1949年1月24日 - 1976年12月9日
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来歴・人物

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床次竹二郎の次男として生まれる。旧制麻布中学校に入り、2年次に東京府立第四中学校(現:東京都立戸山高等学校)へ転校[1]。1923年3月第一高等学校文科乙類[2]1926年東京帝国大学法学部政治科を卒業、内務省に入省する。静岡県地方課長、経済更生課長、東京府知事官房主事兼総務部人事課長、経済部農林課長、奈良県学務部長[3]厚生省予防局優生課長、同省人口局総務課長、ジャワ陸軍司政長官、官選徳島県知事を経て、戦後の1947年の第1回鹿児島県知事選挙に立候補したが落選。1949年第24回衆議院議員総選挙旧鹿児島1区にて民主党から立候補し初当選する(当選同期に池田勇人佐藤栄作岡崎勝男前尾繁三郎橋本龍伍麻生太賀吉小渕光平西村英一橋本登美三郎福永健司塚原俊郎藤枝泉介木村俊夫稲葉修河本敏夫森山欽司有田喜一など)。以後連続当選10回。

民主党→改進党自由民主党に所属し、自民党では重光派→派→藤山派福田派に所属した。外務政務次官、衆院外務、文教委員長等を歴任し、1968年第2次佐藤第2次改造内閣にて総理府総務長官として入閣する。1976年引退。1980年2月22日、心筋梗塞により死去。享年76。

家族・親族

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  • 妻・八重子[4]
  • 二男・正安(1933年生 - 小野田セメント勤務からのち東京大学理学部教授)
  • 長女・和子
  • 二女・悠子(文部省体育局長逸見博昌の妻)
  • 三女・美智子

出典

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  1. ^ 気賀真一郎、橋本重遠「二六会の面々(麻生中学)」『同級生交歓 第1集』あすなろ社、1967年9月20日、241-244頁。
  2. ^ 「第一高等学校一覧 大正14年至15年」国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年4月30日閲覧。
  3. ^ 「日本官界名鑑 昭和14年版」国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年4月30日閲覧。
  4. ^ 「人事興信録 第21版 下」

関連項目

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公職
先代
田中龍夫
  総理府総務長官
第19代:1968年 - 1970年
次代
山中貞則
議会
先代
新設
池田清志
  衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長
1968年
1970年 - 1971年
次代
中村寅太
正示啓次郎
先代
櫻内義雄
八田貞義
  衆議院文教委員長
1962年- 1963年
1967年 - 1968年
次代
久野忠治
高見三郎
先代
野田武夫
  衆議院外務委員長
1957年 - 1958年
次代
櫻内義雄
官職
先代
岡田包義
  徳島県知事
官選第43代:1947年
次代
佐藤勝也