広村 (広島県)
日本の広島県賀茂郡にあった村
広村(ひろむら)は、かつて広島県賀茂郡に属していた村である。現在の呉市広地区。
ひろむら 広村 | |
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廃止日 | 1941年4月21日 |
廃止理由 |
編入合併 広村、仁方町 → 呉市 |
現在の自治体 | 呉市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 広島県 |
郡 | 賀茂郡 |
広村役場 | |
所在地 | 広島県賀茂郡広村 |
座標 | 北緯34度13分57秒 東経132度36分55秒 / 北緯34.2325度 東経132.6153度座標: 北緯34度13分57秒 東経132度36分55秒 / 北緯34.2325度 東経132.6153度 |
ウィキプロジェクト |
歴史
編集災害
編集村名の由来
編集広村の村名の由来は諸説ある。
- 広地区は埋立地であり、大昔は大きな入り江になっていた。
- 入り江の干潮線は辺りの山々の裾にまで達しており、ひろびろとした海湾を称して「ひろ」と名付け、「広」という漢字を当てた。
- 「ひろ」は入り江状態の湾だったが、潮が引くと辺り一面干潟となり、ひろびろとした砂浜が現れたので「広」となった。
などである。
産業
編集農業
編集『大日本篤農家名鑑』によれば、広村の篤農家は、「藤田譲夫、石藤薫一、檜垣照吉、大洲敏」などがいた[3]。
地主
編集鉱業
編集文政年間、1827年から白岳山一帯で石灰岩の採掘が開始される。当時、石灰窯で加工した石灰を農地へ投入することにで作物の収穫量が増加することが見いだされており、肥料の一種として利用が増加する傾向にあった[5]。1904年以降は、村有林内の採掘権を企業に譲渡することで、村に収入がもたらされた[6]。
脚注
編集- ^ 「呉の広地区明治期に被害 高潮の碑 移設して除幕」『中国新聞』2020年(令和2年)11月24日、16面
- ^ 「なお41人 呉市の行方不明」『朝日新聞』昭和42年7月10日夕刊、3版、11面
- ^ 『大日本篤農家名鑑』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月5日閲覧。
- ^ 『広島県下役員録』2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月17日閲覧。
- ^ いち早く使用制限-廉価で大流行の石灰肥料 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班 2017年7月17日閲覧
- ^ 「工業の推移」『呉市史 第6巻 第5章 広村』pp.985 昭和63年3月31日 市史編纂委員会
参考文献
編集- 佐古豊次郎編『広島県下役員録』広島独立通信社、1909年。
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。