島津常久
島津 常久(しまづ つねひさ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津家の家臣。薩摩藩家老。日置島津家3代当主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正15年1月18日(1587年2月25日) |
死没 | 慶長19年5月29日(1614年7月6日) |
改名 | 袈裟菊丸(幼名)、又吉(通称) |
別名 | 常陸守、下総守(受領名) |
戒名 | 芳春天沢庵主 |
墓所 | 日置光禅寺 |
主君 | 島津義弘→家久 |
氏族 | 日置島津家 |
父母 | 父:島津忠隣、母:蓮秀夫人(湯之尾:島津歳久娘) |
妻 | 本田氏の女 |
子 | 久慶、女(喜入忠高室) |
生涯
編集天正15年(1587年)、島津家臣・島津忠隣の子として誕生した。母は島津歳久の長女・湯之尾。
誕生してわずか3か月後の同年4月17日(5月24日)の根白坂の戦いにて父・忠隣が戦死した。残された常久は祖父・歳久の手によって養育されたが、その歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれた。歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院宮之城(現・鹿児島県さつま町宮之城)の虎居城に籠城した。この事態を重く見た細川幽斎と主君・島津義久は新納忠元を使者として差遣し、歳久の遺族・遺臣を害さないことを約するなど説得を行い、1か月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至った。
成人後の文禄4年(1595年)に日置(現・鹿児島県日置市日吉町日置)の山田・神ノ川3600石を賜って移住、さらに慶長6年(1601年)には藺牟田を、翌年には祁答院船木村を、慶長13年(1608年)には伊作の中ノ里などを賜った。主君家久の信任厚い家臣として活躍、家久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めた。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である上之山城の城主に任命された。
慶長19年(1614年)、疱瘡(天然痘)により急死した。享年28。日置の大乗寺に葬られ、後に同じ日置の光禅寺へ改葬された。